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ロマノフォ朝崩壊
(ロマノフ朝崩壊1)
徳川幕府の誕生した頃、つまり1613年に始まったロマノフ朝は約300年後、徳川幕府が1868年に倒れて後50年くらいの後、1917年ロシア暦2月、西暦では、3月首都の軍隊の反乱により倒された。
日本の明治維新では、天皇制が倒されるどころか、それまで何の政治的実権も無かった天皇が神格化されて、フランス革命やロシア革命とは正反対になってしまって、その後の日本の軍国主義化の精神的バックボーンになってしまったが。
3月8日、パンを求めて始まった市民のデモは、3月14日には、近衛連隊から選抜された皇帝連隊までも、革命軍に加わっていた。
前線のニコライ皇帝は、3月10日、ゴリツイン首相から首都の緊急事態を知らされると、ペトログラード軍管区司令官ハバロフ中将に、デモの鎮圧を命じていたが、追い詰められて、冬宮にたてこもっていた鎮圧軍のハバロフ部隊1,500人は、多勢に無勢を悟ると、革命軍に同化してしまった。
3月14日、ニコライ皇帝は家族のいる「皇帝村」に向かったが、ペトログラード迄100キロ付近に大砲や機関銃で武装した革命軍が、皇帝を待ち構えていたため、慌てて北部方面軍司令部のあるプスコフに、行き先を変えた。
もはやニコライ皇帝に安住の地は無く、家族もろとも暗殺されるのを待つだけの、生ける屍といっても良い情勢となって行く。
(参考図書)
(ロマノフ朝崩壊2)
ロマノフ朝の権威を失墜させた原因のひとつに、皇后アレクサンドラと怪僧ラスプーチンとの親密な関係があった。ニコライ皇帝とアレクサンドラ皇后との間に生まれた、跡継ぎの皇太子アレクセイは、アレクサンドラ皇后の曾祖母ヴィクトリア女王の遺伝で、血友病だった。
皇太子アレクセイの血友病からくる激痛を和らげるのに、怪僧ラスプーチンが、たまたま役立ったため、アレクサンドラ皇后のラスプーチンに対する信頼は、絶対的なものになり、ラスプーチンは、国政にも少なからず影響力を、及ぼすようになった。
ラスプーチンは、シベリアの農民出身で、1869年に生まれた。若い時には、とても宗教家になるような男ではなかったが、何かをきっかけにして、宗教に目覚めると、修道院に行ったりした後、宗教家となった。
1904年首都に出て、ペテルブルグ神学大学校長セルギイ主教から、皇后と親しいニコラエヴィチ大公夫人を紹介された。そのつてで、皇后と面会でき、皇太子アレクセイの医者代わりのような存在になっていった。
(参考図書)
(ロマノフ朝崩壊3)
ラスプーチンと皇后は、愛人関係にあるとの、まことしやかな噂が流れる程、2人の関係は、親密だった。それは、皇帝の権威を失墜させ、ロマノフ朝の権威も失墜させた。
皇太子が、血友病である事は、国家機密とされていたため、皇后のラスプーチンへの絶対的帰依は、不思議なものとして、2人は愛人関係にあるとの疑念を抱かせることになった。
ストルイピン首相や、皇太后・皇族方全ての人々が、ニコライ皇帝に、ラスプーチンと皇后の親密な関係を断ち切らなければ、ロマノフ朝の終焉につながりかねないとして、迫ったが、皇帝は言う事を聞かなかった。
ついに1916年12月、皇帝の姪を妻とするユスーポフ公爵、皇帝の甥ドミートリー・パヴロヴィチ大公、右翼国会議員プリシケーヴィチの3人で、ラスプーチンを暗殺する事になった。まず毒入りの酒を飲ませたが、そんなものでは、ラスプーチンは、びくともしなかった。
逃げ出そうとしたラスプーチンを追って、ピストルを何発も撃ち込み、2度と生き返らないように、更に棒で何度も乱打して、止めをさし運河に捨てた。
皇族の逮捕権は、皇帝にしかなかったため、3人が逮捕される事はなかった。
しかしラスプーチンを殺した位では、瀕死のロマノフ朝を救う事は出来なかった。日露戦争の敗北と。血の日曜日事件で、皇帝への信頼が急速に落ち込んでいたというのに、第1次世界大戦への参戦という無謀な企てが、ロマノフ朝の息の根を止めたのだ。
(参考図書)
徳川幕府の誕生した頃、つまり1613年に始まったロマノフ朝は約300年後、徳川幕府が1868年に倒れて後50年くらいの後、1917年ロシア暦2月、西暦では、3月首都の軍隊の反乱により倒された。
日本の明治維新では、天皇制が倒されるどころか、それまで何の政治的実権も無かった天皇が神格化されて、フランス革命やロシア革命とは正反対になってしまって、その後の日本の軍国主義化の精神的バックボーンになってしまったが。
3月8日、パンを求めて始まった市民のデモは、3月14日には、近衛連隊から選抜された皇帝連隊までも、革命軍に加わっていた。
前線のニコライ皇帝は、3月10日、ゴリツイン首相から首都の緊急事態を知らされると、ペトログラード軍管区司令官ハバロフ中将に、デモの鎮圧を命じていたが、追い詰められて、冬宮にたてこもっていた鎮圧軍のハバロフ部隊1,500人は、多勢に無勢を悟ると、革命軍に同化してしまった。
3月14日、ニコライ皇帝は家族のいる「皇帝村」に向かったが、ペトログラード迄100キロ付近に大砲や機関銃で武装した革命軍が、皇帝を待ち構えていたため、慌てて北部方面軍司令部のあるプスコフに、行き先を変えた。
もはやニコライ皇帝に安住の地は無く、家族もろとも暗殺されるのを待つだけの、生ける屍といっても良い情勢となって行く。
(参考図書)
(ロマノフ朝崩壊2)
ロマノフ朝の権威を失墜させた原因のひとつに、皇后アレクサンドラと怪僧ラスプーチンとの親密な関係があった。ニコライ皇帝とアレクサンドラ皇后との間に生まれた、跡継ぎの皇太子アレクセイは、アレクサンドラ皇后の曾祖母ヴィクトリア女王の遺伝で、血友病だった。
皇太子アレクセイの血友病からくる激痛を和らげるのに、怪僧ラスプーチンが、たまたま役立ったため、アレクサンドラ皇后のラスプーチンに対する信頼は、絶対的なものになり、ラスプーチンは、国政にも少なからず影響力を、及ぼすようになった。
ラスプーチンは、シベリアの農民出身で、1869年に生まれた。若い時には、とても宗教家になるような男ではなかったが、何かをきっかけにして、宗教に目覚めると、修道院に行ったりした後、宗教家となった。
1904年首都に出て、ペテルブルグ神学大学校長セルギイ主教から、皇后と親しいニコラエヴィチ大公夫人を紹介された。そのつてで、皇后と面会でき、皇太子アレクセイの医者代わりのような存在になっていった。
(参考図書)
(ロマノフ朝崩壊3)
ラスプーチンと皇后は、愛人関係にあるとの、まことしやかな噂が流れる程、2人の関係は、親密だった。それは、皇帝の権威を失墜させ、ロマノフ朝の権威も失墜させた。
皇太子が、血友病である事は、国家機密とされていたため、皇后のラスプーチンへの絶対的帰依は、不思議なものとして、2人は愛人関係にあるとの疑念を抱かせることになった。
ストルイピン首相や、皇太后・皇族方全ての人々が、ニコライ皇帝に、ラスプーチンと皇后の親密な関係を断ち切らなければ、ロマノフ朝の終焉につながりかねないとして、迫ったが、皇帝は言う事を聞かなかった。
ついに1916年12月、皇帝の姪を妻とするユスーポフ公爵、皇帝の甥ドミートリー・パヴロヴィチ大公、右翼国会議員プリシケーヴィチの3人で、ラスプーチンを暗殺する事になった。まず毒入りの酒を飲ませたが、そんなものでは、ラスプーチンは、びくともしなかった。
逃げ出そうとしたラスプーチンを追って、ピストルを何発も撃ち込み、2度と生き返らないように、更に棒で何度も乱打して、止めをさし運河に捨てた。
皇族の逮捕権は、皇帝にしかなかったため、3人が逮捕される事はなかった。
しかしラスプーチンを殺した位では、瀕死のロマノフ朝を救う事は出来なかった。日露戦争の敗北と。血の日曜日事件で、皇帝への信頼が急速に落ち込んでいたというのに、第1次世界大戦への参戦という無謀な企てが、ロマノフ朝の息の根を止めたのだ。
(参考図書)
ロシア革命
(ロシア革命1)
1917年ロシアにおいて勃発した、ロシア革命(2月革命と10月革命)は、人類の歴史における最大の分岐点となる出来事になるかも知れない。ロシア革命以前のあまたの歴史的事件では、他民族による大虐殺はあったものの、同じ民族の内部はまとまっていた。
ところが、ロシア革命以降は、ロシアによる革命の輸出が、全世界規模に広がった結果、同じ民族の内部分裂が世界各地で引き起こされるようになった。
簡単に言えば反体制活動が、世界規模で連携して行われるようになり、一国だけの軍隊・警察力では、抑えられなくなっている。
戦争が国家対国家の戦争から、国家対世界規模の反体制組織の戦争に衣替えしたきっかけが、ロシア革命だった。ロシア革命以降の共産主義の世界輸出は現在も盛んに行われている。
歴史に話しを戻すと、第1次世界大戦前のロシアは、1904年〜1905年の日露戦争中、1905年の血の日曜日事件で、軍隊が首都ペテルブルクの冬宮に向かって行進するデモ隊に発砲した事件を契機に、ストライキが全国に広がった。
この流れの内から、ソヴィエト(労働者と兵士の協議会)が生まれて、10月にペテルブルグで大会が開かれた。
(参考図書)
(ロシア革命2)
国内の反体制運動の拡大により、ロシア政府の日露戦争続行は、困難となった。日本海海戦でバルチック艦隊が、大敗北を喫したことをきっかけに、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介を受け入れ、日本との講和を結ぶ事になった。
1905年9月5日、日本側講和会議全権小村寿太郎と、ロシア側全権ウイッテとの間で、樺太の南半分を日本に引き渡すとの条件で、ポーツマス講和条約が締結された。
リューリク朝断絶後、1613年ミハイル・ロマノフがツアーリに即位して始まったロマノフ朝は、300年も経つと身分制の固定化などにより、社会の不満が高まって、崩壊寸前にきていた。
血の日曜日事件で皇帝に対する尊敬の念が喪失しつつあった上に、日露戦争の敗北によって、一挙に革命的雰囲気が高まった。
更に、1905年11月14日、ロマノフ朝の権威を失墜させる、怪僧ラスプーチンが宮廷にやってきた。
(参考図書)
(ロシア革命3)
日露戦争後、革命的雰囲気が一層高まり、1861年アレクサンドル2世による農奴解放以降不穏な情勢となった農村では、村会の取り決めによって、地主を追い出す動きが、生じた。
9月にはモスクワの印刷工のストライキが起き、10月には、モスクワーカザン線の鉄道員のストライキが、全国の鉄道員のストライキに広がった。
更にこれらのストライキは、労働者だけでなく学生・教師・役人・商店主・店員などにも広がった。
ポーツマス講和会議から帰国したウイッテは、首相に就任すると、革命的情勢を鎮めるため、国会を開設する事を皇帝ニコライ2世に進言した。
1906年2〜3月の国会議員選挙に対して、ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ(多数派)もメンシェヴィキ(少数派)もボイコットを呼びかけたが、結果は、448議席中、立憲民主党153・農民派トルドヴィキ107・民族自治派63・オクチャブリスト13議席などとなった。
5月立憲専制体制とも言うべきものを定めた憲法が公布された。ウイッテは憲法制定の前日に首相を辞任し、ゴレムイキン首相の後、7月からストルイピンが首相に就任した。
(参考図書)
(ロシア革命4)
ストルイピンは、ペテルブルク帝国大学で自然科学を学び、グロドノ県知事をしていた貴族出身者だった。有能な首相として、崩壊寸前のロマノフ朝を救おうとして、特に農業問題と民族問題でストルイピンの改革を行おうとした。
国内では、革命運動を徹底的に弾圧して国内体制を固めると共に、外交政策では、親英・親独平和路線を取って、戦争を回避しようとしていた。
「日露戦争後の革命的情勢から考えて、もしまた戦争に巻き込まれるか、戦争を引き起こせば、その時は、ロマノフ朝が倒れる」と、ストルイピンには思われたのだろう。
ストルイピンの改革も、2院制の国会で、その改革法案を通そうとすると、下院では保守的として反対され、上院では、過激すぎるとして反対され、法案が通らなかった。
更に、ストルイピン一家の住んでいた家が、1906年8月25日爆弾攻撃を受けて、子供たちが負傷した。最後には、ストルイピン自身が、1911年9月18日皇帝も臨席していたキエフの劇場で、ユダヤ人青年のピストルで暗殺された。
(参考図書)
(ロシア革命5)
何故一党独裁のボリシェヴィキ政権が、ロシアに誕生したのかを考えると、当たり前になってしまうが、軍事力が全てを決定したと言える。
2月革命は、どちらかと言えば、ブルジョア革命で、それ程急進的なものでは無く、外国との同盟関係も維持していくため、戦争を継続していこうとした。しかしそれが、命取りになった。
1917年6月下旬、陸相ケレンスキーは、夏季攻勢のためと称して、首都ペトログラードのボリシェヴィキ派革命軍の中核部隊である、第1機関銃連隊(1万人の兵士と1,000人の機関銃兵で構成された)らを、前線に送る決定をした。
この第1機関銃連隊の機関銃500挺が、ボリシェヴィキ派の権力の源泉であったから、それを首都から遠く前線に送ってしまえば、ボリシェヴィキ派の勢力を抑える事も可能とみたのだろう。
しかしこの決定に対して、第1機関銃連隊は、政府に公然と反抗し、政府を武力で追い払うと脅かした。
革命の成功の原因としては、勿論機関銃連隊だけでなく、軍の武器庫から奪った大砲や、鉄砲が、労働者に渡った事が大きかったし、何より、首都の兵士が革命軍に身を投じて、反乱軍になった事が、一番大きかったのだろう。
ただし、この時は、ボリシェヴィキは、革命に失敗した。7月16、17日「権力をソヴィエトへ」のスローガンのもと、兵士4〜6万人、労働者30〜35万人の武装デモを起こしたものの、臨時政府側に鎮圧されて、レーニンは、逃げ足早く、地下に潜行して逮捕を免れた。
レーニンは、ドイツが、第1次大戦を有利に運ぶため、ロシアの混乱を狙って、4月に亡命先のスイスからペトログラードに、ドイツ側の用意した特別列車で、凱旋帰国させていた。
レーニンは、その後、ドイツの思惑通り、戦争からのロシアの離脱を強硬に主張し、ロシア社会を混乱の極みに陥れていく。
(参考図書)
(ロシア革命6)
7月のボリシェヴィキほう起の失敗は、ブルジョアジーや保守派に勢いをつけて、反革命の成功への淡い期待を抱かせた。その期待を一身に集めたのが、7月に最高司令官に任命された、コルニーロフだった。
コルニーロフは、参謀本部大学校を卒業し、日露戦争に従軍した。2月革命後、ペトログラード軍管区司令官に任命されていた。7月西南方面軍司令官に任命された後、最高司令官となった。
8月6日ケレンスキーを首相とする第3次臨時政府が誕生した。
コルニーロフは、ケレンスキー首相と会談し、2月革命後、いったん廃止された後、軍の前線における命令違反に対してのみ、復活していた死刑を、後方の命令違反にも復活することを含む、様々な意見を述べたコルニーロフ意見書を、ケレンスキー首相に提出した。
ケレンスキー首相は、これを拒否したため、9月6日コルニーロフは、反革命クーデターを決断し、部下のクルイモフ将軍に、モスクワから首都ペトログラードに向けて、進撃を開始するように命じた。
ケレンスキー首相にとって、頼みの綱は、労働者民兵の赤衛隊・ボリシェヴィキ派兵士を中心とする革命軍だけだった。
ここに共産党一党独裁による、ロシア革命後の政権の骨格が出来上がる事になった。
9月10日、コルニーロフ軍は、ボリシェヴィキ派の内部工作員兵士によって、内部崩壊させられた。ロシア軍の幹部は貴族出身なのに対して、一般の兵士は、労働者や、農民出身者だったから、幹部と一般の兵士との感情的対立が、軍を内部崩壊させた。このことは、コルニーロフ軍に限らず、全てのロシア軍に言える事だった。
(参考図書)
世界歴史体系 ロシア史3 20世紀 株式会社 山川出版社
(ロシア革命7)
1917年10月革命は、レーニンによるクーデターで上からのものだった。2月革命は自然発生的に軍隊の反乱などにより、下から行われた革命と言えるものだったが。
コルニーロフによるクーデターの失敗により、息をふきかえしたレーニンは、他の穏健派の諸政党を全て排除した、ボリシェヴィキによる一党独裁を狙って、武力蜂起を決行する事を、10月23日のボリシェヴィキの秘密会議で決定した。
決行時期は、第2回全ロシア・ソヴィエト大会の開会迄にとして、第2回全ロシア・ソヴィエト大会は、ボリシェイキ派による武力クーデターの事後報告の場にしてしまう腹だった。
コルニーロフのクーデターの失敗のおかげで、ボリシェヴィキに軍事力で戦える勢力がなくなったため、ボリシェヴィキ派軍の武力蜂起の成功の確率は、100パーセントに近いものとなっていた。
軍のほとんど全ては、ドイツなどとの戦いのために、ペトログラードやモスクワからは、遠く離れた所にいて、革命軍を鎮圧できる軍隊がいない隙を突いた訳である。


1917年ロシアにおいて勃発した、ロシア革命(2月革命と10月革命)は、人類の歴史における最大の分岐点となる出来事になるかも知れない。ロシア革命以前のあまたの歴史的事件では、他民族による大虐殺はあったものの、同じ民族の内部はまとまっていた。
ところが、ロシア革命以降は、ロシアによる革命の輸出が、全世界規模に広がった結果、同じ民族の内部分裂が世界各地で引き起こされるようになった。
簡単に言えば反体制活動が、世界規模で連携して行われるようになり、一国だけの軍隊・警察力では、抑えられなくなっている。
戦争が国家対国家の戦争から、国家対世界規模の反体制組織の戦争に衣替えしたきっかけが、ロシア革命だった。ロシア革命以降の共産主義の世界輸出は現在も盛んに行われている。
歴史に話しを戻すと、第1次世界大戦前のロシアは、1904年〜1905年の日露戦争中、1905年の血の日曜日事件で、軍隊が首都ペテルブルクの冬宮に向かって行進するデモ隊に発砲した事件を契機に、ストライキが全国に広がった。
この流れの内から、ソヴィエト(労働者と兵士の協議会)が生まれて、10月にペテルブルグで大会が開かれた。
(参考図書)
(ロシア革命2)
国内の反体制運動の拡大により、ロシア政府の日露戦争続行は、困難となった。日本海海戦でバルチック艦隊が、大敗北を喫したことをきっかけに、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介を受け入れ、日本との講和を結ぶ事になった。
1905年9月5日、日本側講和会議全権小村寿太郎と、ロシア側全権ウイッテとの間で、樺太の南半分を日本に引き渡すとの条件で、ポーツマス講和条約が締結された。
リューリク朝断絶後、1613年ミハイル・ロマノフがツアーリに即位して始まったロマノフ朝は、300年も経つと身分制の固定化などにより、社会の不満が高まって、崩壊寸前にきていた。
血の日曜日事件で皇帝に対する尊敬の念が喪失しつつあった上に、日露戦争の敗北によって、一挙に革命的雰囲気が高まった。
更に、1905年11月14日、ロマノフ朝の権威を失墜させる、怪僧ラスプーチンが宮廷にやってきた。
(参考図書)
(ロシア革命3)
日露戦争後、革命的雰囲気が一層高まり、1861年アレクサンドル2世による農奴解放以降不穏な情勢となった農村では、村会の取り決めによって、地主を追い出す動きが、生じた。
9月にはモスクワの印刷工のストライキが起き、10月には、モスクワーカザン線の鉄道員のストライキが、全国の鉄道員のストライキに広がった。
更にこれらのストライキは、労働者だけでなく学生・教師・役人・商店主・店員などにも広がった。
ポーツマス講和会議から帰国したウイッテは、首相に就任すると、革命的情勢を鎮めるため、国会を開設する事を皇帝ニコライ2世に進言した。
1906年2〜3月の国会議員選挙に対して、ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ(多数派)もメンシェヴィキ(少数派)もボイコットを呼びかけたが、結果は、448議席中、立憲民主党153・農民派トルドヴィキ107・民族自治派63・オクチャブリスト13議席などとなった。
5月立憲専制体制とも言うべきものを定めた憲法が公布された。ウイッテは憲法制定の前日に首相を辞任し、ゴレムイキン首相の後、7月からストルイピンが首相に就任した。
(参考図書)
(ロシア革命4)
ストルイピンは、ペテルブルク帝国大学で自然科学を学び、グロドノ県知事をしていた貴族出身者だった。有能な首相として、崩壊寸前のロマノフ朝を救おうとして、特に農業問題と民族問題でストルイピンの改革を行おうとした。
国内では、革命運動を徹底的に弾圧して国内体制を固めると共に、外交政策では、親英・親独平和路線を取って、戦争を回避しようとしていた。
「日露戦争後の革命的情勢から考えて、もしまた戦争に巻き込まれるか、戦争を引き起こせば、その時は、ロマノフ朝が倒れる」と、ストルイピンには思われたのだろう。
ストルイピンの改革も、2院制の国会で、その改革法案を通そうとすると、下院では保守的として反対され、上院では、過激すぎるとして反対され、法案が通らなかった。
更に、ストルイピン一家の住んでいた家が、1906年8月25日爆弾攻撃を受けて、子供たちが負傷した。最後には、ストルイピン自身が、1911年9月18日皇帝も臨席していたキエフの劇場で、ユダヤ人青年のピストルで暗殺された。
(参考図書)
(ロシア革命5)
何故一党独裁のボリシェヴィキ政権が、ロシアに誕生したのかを考えると、当たり前になってしまうが、軍事力が全てを決定したと言える。
2月革命は、どちらかと言えば、ブルジョア革命で、それ程急進的なものでは無く、外国との同盟関係も維持していくため、戦争を継続していこうとした。しかしそれが、命取りになった。
1917年6月下旬、陸相ケレンスキーは、夏季攻勢のためと称して、首都ペトログラードのボリシェヴィキ派革命軍の中核部隊である、第1機関銃連隊(1万人の兵士と1,000人の機関銃兵で構成された)らを、前線に送る決定をした。
この第1機関銃連隊の機関銃500挺が、ボリシェヴィキ派の権力の源泉であったから、それを首都から遠く前線に送ってしまえば、ボリシェヴィキ派の勢力を抑える事も可能とみたのだろう。
しかしこの決定に対して、第1機関銃連隊は、政府に公然と反抗し、政府を武力で追い払うと脅かした。
革命の成功の原因としては、勿論機関銃連隊だけでなく、軍の武器庫から奪った大砲や、鉄砲が、労働者に渡った事が大きかったし、何より、首都の兵士が革命軍に身を投じて、反乱軍になった事が、一番大きかったのだろう。
ただし、この時は、ボリシェヴィキは、革命に失敗した。7月16、17日「権力をソヴィエトへ」のスローガンのもと、兵士4〜6万人、労働者30〜35万人の武装デモを起こしたものの、臨時政府側に鎮圧されて、レーニンは、逃げ足早く、地下に潜行して逮捕を免れた。
レーニンは、ドイツが、第1次大戦を有利に運ぶため、ロシアの混乱を狙って、4月に亡命先のスイスからペトログラードに、ドイツ側の用意した特別列車で、凱旋帰国させていた。
レーニンは、その後、ドイツの思惑通り、戦争からのロシアの離脱を強硬に主張し、ロシア社会を混乱の極みに陥れていく。
(参考図書)
(ロシア革命6)
7月のボリシェヴィキほう起の失敗は、ブルジョアジーや保守派に勢いをつけて、反革命の成功への淡い期待を抱かせた。その期待を一身に集めたのが、7月に最高司令官に任命された、コルニーロフだった。
コルニーロフは、参謀本部大学校を卒業し、日露戦争に従軍した。2月革命後、ペトログラード軍管区司令官に任命されていた。7月西南方面軍司令官に任命された後、最高司令官となった。
8月6日ケレンスキーを首相とする第3次臨時政府が誕生した。
コルニーロフは、ケレンスキー首相と会談し、2月革命後、いったん廃止された後、軍の前線における命令違反に対してのみ、復活していた死刑を、後方の命令違反にも復活することを含む、様々な意見を述べたコルニーロフ意見書を、ケレンスキー首相に提出した。
ケレンスキー首相は、これを拒否したため、9月6日コルニーロフは、反革命クーデターを決断し、部下のクルイモフ将軍に、モスクワから首都ペトログラードに向けて、進撃を開始するように命じた。
ケレンスキー首相にとって、頼みの綱は、労働者民兵の赤衛隊・ボリシェヴィキ派兵士を中心とする革命軍だけだった。
ここに共産党一党独裁による、ロシア革命後の政権の骨格が出来上がる事になった。
9月10日、コルニーロフ軍は、ボリシェヴィキ派の内部工作員兵士によって、内部崩壊させられた。ロシア軍の幹部は貴族出身なのに対して、一般の兵士は、労働者や、農民出身者だったから、幹部と一般の兵士との感情的対立が、軍を内部崩壊させた。このことは、コルニーロフ軍に限らず、全てのロシア軍に言える事だった。
(参考図書)
世界歴史体系 ロシア史3 20世紀 株式会社 山川出版社
(ロシア革命7)
1917年10月革命は、レーニンによるクーデターで上からのものだった。2月革命は自然発生的に軍隊の反乱などにより、下から行われた革命と言えるものだったが。
コルニーロフによるクーデターの失敗により、息をふきかえしたレーニンは、他の穏健派の諸政党を全て排除した、ボリシェヴィキによる一党独裁を狙って、武力蜂起を決行する事を、10月23日のボリシェヴィキの秘密会議で決定した。
決行時期は、第2回全ロシア・ソヴィエト大会の開会迄にとして、第2回全ロシア・ソヴィエト大会は、ボリシェイキ派による武力クーデターの事後報告の場にしてしまう腹だった。
コルニーロフのクーデターの失敗のおかげで、ボリシェヴィキに軍事力で戦える勢力がなくなったため、ボリシェヴィキ派軍の武力蜂起の成功の確率は、100パーセントに近いものとなっていた。
軍のほとんど全ては、ドイツなどとの戦いのために、ペトログラードやモスクワからは、遠く離れた所にいて、革命軍を鎮圧できる軍隊がいない隙を突いた訳である。

V2ミサイル
(イギリスの陰謀)
アメリカを第2次世界大戦に引き込むために、チャーチルの取った作戦は、日米戦争を起こさせるために、日本に南進させる事だった。チャーチルの謀略作戦が発動された。
ドイツ空軍によるロンドン大空襲の行われていた頃、1940年11月、ドイツ海軍巡洋艦アトランテイスは、ニコバル諸島沖で、英国商船オートメドンから、「日本が南進しても英国政府はなんら対応することはない」との英国戦時内閣の秘密文書を押収した。
この文書を手にした日本海軍は、この文書を動かぬ証拠として、南進反対の外務省と陸軍省を説得し、天皇の御裁可も得て、南仏印進駐が決定した。
この知らせを受けたチャーチルは、これで日米開戦必至と思い、してやったりと大喜びした。
1941年6月22日からの独ソ開戦以来の、ドイツ軍の破竹の進撃を目の当たりにして、ドイツ軍がモスクワ近郊まで攻め込んでいた1941年12月8日、日本は無謀な太平洋戦争に突入していく事になる。しかし日本が太平洋戦争に入っていった頃、12月5日、モスクワでは、ソ連軍が反撃を開始した。
(参考図書)
(V2ミサイル1)
第1次世界大戦後、パリ講和会議でドイツとの間に結ばれたヴェルサイユ条約で、ドイツ軍は、国内の治安維持のための、最小限の軍隊の保有だけ認められる事になった。
その内訳は、陸軍10万・海軍1万5,000・艦艇36隻で、空軍も禁じられ、Uボートに懲りた戦勝国が、潜水艦も禁じた。徴兵制も禁止された。
大砲に関しては、口径7,6センチ以上の大口径砲も禁止された。
ところが、ロケット兵器については、ヴェルサイユ条約で一言も触れられていなかった。
ロケット兵器の命中精度が低かったため、15世紀以来、大砲の射程と命中精度が向上するにつれて、ロケット兵器は、兵器として無視されるようになっていった。
ここに目をつけたのが、当時ドイツ陸軍兵器局の砲術弾道課長だったベッカー大佐だった。
1929年ベッカー大佐は、砲術弾薬部の部下だったホルステイヒ少佐に、ロケット兵器開発を指示し、ホルステイヒ少佐の部下の、ドルンベルガー大尉が、世界最初の大型ミサイルの生みの親となった。
(参考図書)
(V2ミサイル2)
V2ミサイル開発の中心人物と言えば、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士と言う事になる。ヴェルナー・フォン・ブラウン博士は、1912年3月23日、ポーランドのヴィルジッツで生まれた。
父のマグヌス・フォン・ブラウンは、男爵で、ドイツ各地に土地を所有しており、裕福な家だった。
母のエミー・フォン・ブラウンの実家も貴族の家柄で、親戚には学者もいた。母のエミーは数ヶ国語に通じており、アマチュア天文学者だった。
ブラウン博士は、12歳の時には、ロケットの実験をするような子供だったが、事故を起こしたりして、ヴァイマールのエッテルブルクにある、寄宿学校のヘルマン・リーツ校に入学させられた。
1925年、雑誌の記事から、ヘルマン・オーベルトの「惑星間空間へのロケット」と言う本を知り、注文して読み始めた。
その本の最初に、オーベルトの以下の4つの信条が書かれていた。
(1)現在の科学と技術の水準で、地球の大気の限界を超える機械が製作できる。
(2)さらに改良をかさねれば、この機械は宇宙空間に飛び出す速度を獲得できる。さらには地球の引力を振り切ることも可能である。
(3)このような機械は、人間を乗せるようにできる。
(4)このような機械は、数十年以内に製作可能であろう。
(V2ミサイル3)
1944年9月からドイツ軍が実戦に使用したV2ミサイル(大型ロケット兵器A4)は、750キログラムの弾頭を装着し、最大速度2,900キロ、最大高度240キロ、射程80〜480キロで、連合国側の、戦闘機・対空砲・気球など全ての迎撃兵器は、何の役にも立たなかった。
V2ミサイルに対する唯一の対抗策は、空爆か地上攻撃により発射基地を破壊するしかなかった。
しかしV2ミサイルの多くは移動式の発射台を使用し、又森の中などに隠されて、囮ミサイルも多数あり、発射基地の発見は困難だった。
ノルマンデイー上陸作戦を行った、アイゼンハウアー連合国最高司令官は、「もしこの兵器が半年早く完成していたら、連合軍の大陸侵攻は大きく遅れ、最悪の場合不可能になっていたかも知れない」と、著書の中で書かれている。
弾道ミサイルは、射程距離によって、3種類に分けられる。
(1)射程5,500キロ以上 大陸間弾道ミサイル(テポドン)
(2)射程1,000〜5,500キロ 中距離弾道ミサイル(ノドン)
(3)射程1,000キロ以下 短距離弾道ミサイル(スカッド)
V2ミサイルは、射程から言えば、短距離弾道ミサイルだったが、液体燃料を使い、 中距離弾道ミサイルに匹敵するものだった。
(参考図書)
(V2ミサイル4)
心理的影響力はともかく、軍事的には、V2ミサイルよりも、爆撃機の方がはるかに大きな破壊力を持っていた。ヒトラー側近のシュペーアは、回想録に次のように書いた。
「敵の爆撃機隊は1944年に、・・・一日平均3、000トンの爆弾を投下していた。一方ヒトラーは一日30発のロケットで24トンの炸薬をイギリスに打ち込むことで報復しようとしていた。それはB17爆撃機の12機分の爆弾搭裁量に過ぎない。」
シュペーアは、「A4(V2ミサイル)のかわりに地対空の防空ミサイルの開発を支持すべきであった」と反省している。
シュペーアは、ドイツ西部のマンハイムの裕福な家に生まれた。彼の家は代々建築家で、1933年5月の党集会の装飾での活躍が評価されて、ニュルンベルク党大会の舞台装置を任された。
そして、ヒトラーの側近となり、V2ミサイルの実験場であるペーネミュンデの施設建設と、航空機産業の建設計画の最高責任者となった。
1940年頃には、ペーネミュンデ陸軍実験所は、ほぼ完成し、夏には、固体推進剤ロケット以外の全てのロケット研究は、ペーネミュンデ陸軍実験所で行われるようになった。
(V2ミサイル5)
第2次大戦でドイツの敗北が決定的になると、米ソ両国の何れがV2ミサイルの技術を奪えるかが、戦後の軍事力を左右する事になり、技術者の奪い合いになった。
一番の重要人物のフォン・ブラウンは、アメリカに投降する意思を固めていた。
1945年3月、ソ連軍がペーネミュンデに30キロ迄接近してきた頃、すんでのところで、技術者一行は、ペーネミュンデを脱出して、アメリカ軍の進出してきたシャットヴァルトで、アメリカ第44歩兵師団第324連隊に投降した。
ペーネミュンデのロケット開発基地は、連合軍も何度も空爆して、その存在は知っていたが、1945年、アメリカ陸軍大佐トリチュルは、トフトイ大佐に、ロケットの確保と、開発責任者との接触の方法についての検討を命じていた。
ロケット・ロケット部品・搭載機器・材料部品などを発見したアメリカ軍は、「技術関係の設備を占領地域から持ち出すことを禁じたヤルタ協定」を監視するソ連軍の大部隊の到着前に、それらのロケット関係の物資を持ち出す事に成功した。
第2次大戦後は、核を搭載した大陸間弾道ミサイルが、最重要兵器となったわけだから、フォン・ブラウンが、アメリカに投降せず、ソ連に連れて行かれていたら、全世界が共産化していたかも知れない。
ソ連もアメリカに投降しなかった残りのドイツV2ミサイル技術者を使って、V2ミサイルのコピーから始めて、コロリョフを先頭に、長距離ミサイルを開発していく。
(参考図書)
アメリカを第2次世界大戦に引き込むために、チャーチルの取った作戦は、日米戦争を起こさせるために、日本に南進させる事だった。チャーチルの謀略作戦が発動された。
ドイツ空軍によるロンドン大空襲の行われていた頃、1940年11月、ドイツ海軍巡洋艦アトランテイスは、ニコバル諸島沖で、英国商船オートメドンから、「日本が南進しても英国政府はなんら対応することはない」との英国戦時内閣の秘密文書を押収した。
この文書を手にした日本海軍は、この文書を動かぬ証拠として、南進反対の外務省と陸軍省を説得し、天皇の御裁可も得て、南仏印進駐が決定した。
この知らせを受けたチャーチルは、これで日米開戦必至と思い、してやったりと大喜びした。
1941年6月22日からの独ソ開戦以来の、ドイツ軍の破竹の進撃を目の当たりにして、ドイツ軍がモスクワ近郊まで攻め込んでいた1941年12月8日、日本は無謀な太平洋戦争に突入していく事になる。しかし日本が太平洋戦争に入っていった頃、12月5日、モスクワでは、ソ連軍が反撃を開始した。
(参考図書)
(V2ミサイル1)
第1次世界大戦後、パリ講和会議でドイツとの間に結ばれたヴェルサイユ条約で、ドイツ軍は、国内の治安維持のための、最小限の軍隊の保有だけ認められる事になった。
その内訳は、陸軍10万・海軍1万5,000・艦艇36隻で、空軍も禁じられ、Uボートに懲りた戦勝国が、潜水艦も禁じた。徴兵制も禁止された。
大砲に関しては、口径7,6センチ以上の大口径砲も禁止された。
ところが、ロケット兵器については、ヴェルサイユ条約で一言も触れられていなかった。
ロケット兵器の命中精度が低かったため、15世紀以来、大砲の射程と命中精度が向上するにつれて、ロケット兵器は、兵器として無視されるようになっていった。
ここに目をつけたのが、当時ドイツ陸軍兵器局の砲術弾道課長だったベッカー大佐だった。
1929年ベッカー大佐は、砲術弾薬部の部下だったホルステイヒ少佐に、ロケット兵器開発を指示し、ホルステイヒ少佐の部下の、ドルンベルガー大尉が、世界最初の大型ミサイルの生みの親となった。
(参考図書)
(V2ミサイル2)
V2ミサイル開発の中心人物と言えば、ヴェルナー・フォン・ブラウン博士と言う事になる。ヴェルナー・フォン・ブラウン博士は、1912年3月23日、ポーランドのヴィルジッツで生まれた。
父のマグヌス・フォン・ブラウンは、男爵で、ドイツ各地に土地を所有しており、裕福な家だった。
母のエミー・フォン・ブラウンの実家も貴族の家柄で、親戚には学者もいた。母のエミーは数ヶ国語に通じており、アマチュア天文学者だった。
ブラウン博士は、12歳の時には、ロケットの実験をするような子供だったが、事故を起こしたりして、ヴァイマールのエッテルブルクにある、寄宿学校のヘルマン・リーツ校に入学させられた。
1925年、雑誌の記事から、ヘルマン・オーベルトの「惑星間空間へのロケット」と言う本を知り、注文して読み始めた。
その本の最初に、オーベルトの以下の4つの信条が書かれていた。
(1)現在の科学と技術の水準で、地球の大気の限界を超える機械が製作できる。
(2)さらに改良をかさねれば、この機械は宇宙空間に飛び出す速度を獲得できる。さらには地球の引力を振り切ることも可能である。
(3)このような機械は、人間を乗せるようにできる。
(4)このような機械は、数十年以内に製作可能であろう。
(V2ミサイル3)
1944年9月からドイツ軍が実戦に使用したV2ミサイル(大型ロケット兵器A4)は、750キログラムの弾頭を装着し、最大速度2,900キロ、最大高度240キロ、射程80〜480キロで、連合国側の、戦闘機・対空砲・気球など全ての迎撃兵器は、何の役にも立たなかった。
V2ミサイルに対する唯一の対抗策は、空爆か地上攻撃により発射基地を破壊するしかなかった。
しかしV2ミサイルの多くは移動式の発射台を使用し、又森の中などに隠されて、囮ミサイルも多数あり、発射基地の発見は困難だった。
ノルマンデイー上陸作戦を行った、アイゼンハウアー連合国最高司令官は、「もしこの兵器が半年早く完成していたら、連合軍の大陸侵攻は大きく遅れ、最悪の場合不可能になっていたかも知れない」と、著書の中で書かれている。
弾道ミサイルは、射程距離によって、3種類に分けられる。
(1)射程5,500キロ以上 大陸間弾道ミサイル(テポドン)
(2)射程1,000〜5,500キロ 中距離弾道ミサイル(ノドン)
(3)射程1,000キロ以下 短距離弾道ミサイル(スカッド)
V2ミサイルは、射程から言えば、短距離弾道ミサイルだったが、液体燃料を使い、 中距離弾道ミサイルに匹敵するものだった。
(参考図書)
(V2ミサイル4)
心理的影響力はともかく、軍事的には、V2ミサイルよりも、爆撃機の方がはるかに大きな破壊力を持っていた。ヒトラー側近のシュペーアは、回想録に次のように書いた。
「敵の爆撃機隊は1944年に、・・・一日平均3、000トンの爆弾を投下していた。一方ヒトラーは一日30発のロケットで24トンの炸薬をイギリスに打ち込むことで報復しようとしていた。それはB17爆撃機の12機分の爆弾搭裁量に過ぎない。」
シュペーアは、「A4(V2ミサイル)のかわりに地対空の防空ミサイルの開発を支持すべきであった」と反省している。
シュペーアは、ドイツ西部のマンハイムの裕福な家に生まれた。彼の家は代々建築家で、1933年5月の党集会の装飾での活躍が評価されて、ニュルンベルク党大会の舞台装置を任された。
そして、ヒトラーの側近となり、V2ミサイルの実験場であるペーネミュンデの施設建設と、航空機産業の建設計画の最高責任者となった。
1940年頃には、ペーネミュンデ陸軍実験所は、ほぼ完成し、夏には、固体推進剤ロケット以外の全てのロケット研究は、ペーネミュンデ陸軍実験所で行われるようになった。
(V2ミサイル5)
第2次大戦でドイツの敗北が決定的になると、米ソ両国の何れがV2ミサイルの技術を奪えるかが、戦後の軍事力を左右する事になり、技術者の奪い合いになった。
一番の重要人物のフォン・ブラウンは、アメリカに投降する意思を固めていた。
1945年3月、ソ連軍がペーネミュンデに30キロ迄接近してきた頃、すんでのところで、技術者一行は、ペーネミュンデを脱出して、アメリカ軍の進出してきたシャットヴァルトで、アメリカ第44歩兵師団第324連隊に投降した。
ペーネミュンデのロケット開発基地は、連合軍も何度も空爆して、その存在は知っていたが、1945年、アメリカ陸軍大佐トリチュルは、トフトイ大佐に、ロケットの確保と、開発責任者との接触の方法についての検討を命じていた。
ロケット・ロケット部品・搭載機器・材料部品などを発見したアメリカ軍は、「技術関係の設備を占領地域から持ち出すことを禁じたヤルタ協定」を監視するソ連軍の大部隊の到着前に、それらのロケット関係の物資を持ち出す事に成功した。
第2次大戦後は、核を搭載した大陸間弾道ミサイルが、最重要兵器となったわけだから、フォン・ブラウンが、アメリカに投降せず、ソ連に連れて行かれていたら、全世界が共産化していたかも知れない。
ソ連もアメリカに投降しなかった残りのドイツV2ミサイル技術者を使って、V2ミサイルのコピーから始めて、コロリョフを先頭に、長距離ミサイルを開発していく。
(参考図書)
独ソ戦3
バルバロッサ作戦は、(1)レニングラード占領を目標とする北方軍集団(2)モスクワ占領を目標とする中央軍集団(3)キエフ占領を目標とする南方軍集団の137個師団・3軍集団によって、行われた。
ソ連軍も同じ程度の兵力が、独ソ国境沿いに展開していたが、スターリンによる赤軍大粛清で、フランスと同じように、大した抵抗無く壊滅できるものと、ドイツ側からは、考えられていた。
(1)北方軍集団は、フォン・レープ元帥が、指揮する31個師団で、ヘプナー上級大将が指揮する第4装甲集団が、主力だった。
バルト海に沿って、リトアニア・ラトビア・エストニアのバルト3国を経てレニングラードに向かった。当初波竹の勢いで進撃したものの、1941年6月26日にストップして、歩兵師団を待つ事にしたため、進撃が再開されたのは、6日後の7月2日だった。
そのため、ソ連軍に防御体勢を整える時間的余裕を与えてしまった。それでも8月20日、モスクワ=レニングラード間の鉄道線を遮断して、フィンランド軍もレニングラード包囲網の一角を担う事となり、レニングラード包囲に成功した。
(参考図書)
(外交上の約束は軍事力の裏づけが必要)
1938年3月の独ソ不可侵条約の秘密付属議定書により、ポーランドを独ソで分割する事が決められた。ソ連は、フィンランド・エストニア・ラトヴィアを貰い、ドイツは、リトアニアとルーマニアのベッサラビアを貰う事が、決まった。
独ソ不可侵条約により、ソ連は英米などの資本主義国と全体主義国ドイツを敵に回して戦う恐れが無くなり、最も、この条約の恩恵を受ける事ができた。
ソ連は、中立を保っている間に国力と戦力の大増強を図る事ができた。
それに反して、ドイツは、ソ連と組んでポーランドを侵略したために、英仏と反共の協同戦線を張って、共産主義国家ソ連を倒すべきなのに、英仏と戦う羽目に陥ってしまった。
フランスに親独のヴィシー政権が出来ると、ヨーロッパでドイツを脅かすのは、ソ連のみとなり、ナチスの本来の主義である、反ユダヤと反共産主義に従って、ドイツは、独ソ不可侵条約を反故にしてソ連に攻め込んだ。
「外交上の約束は、軍事力と表裏一体にあって、軍事力で担保されなければ、ただの紙切れにすぎず、すぐに破られるものである」と言う実例だった。


ソ連軍も同じ程度の兵力が、独ソ国境沿いに展開していたが、スターリンによる赤軍大粛清で、フランスと同じように、大した抵抗無く壊滅できるものと、ドイツ側からは、考えられていた。
(1)北方軍集団は、フォン・レープ元帥が、指揮する31個師団で、ヘプナー上級大将が指揮する第4装甲集団が、主力だった。
バルト海に沿って、リトアニア・ラトビア・エストニアのバルト3国を経てレニングラードに向かった。当初波竹の勢いで進撃したものの、1941年6月26日にストップして、歩兵師団を待つ事にしたため、進撃が再開されたのは、6日後の7月2日だった。
そのため、ソ連軍に防御体勢を整える時間的余裕を与えてしまった。それでも8月20日、モスクワ=レニングラード間の鉄道線を遮断して、フィンランド軍もレニングラード包囲網の一角を担う事となり、レニングラード包囲に成功した。
(参考図書)
(外交上の約束は軍事力の裏づけが必要)
1938年3月の独ソ不可侵条約の秘密付属議定書により、ポーランドを独ソで分割する事が決められた。ソ連は、フィンランド・エストニア・ラトヴィアを貰い、ドイツは、リトアニアとルーマニアのベッサラビアを貰う事が、決まった。
独ソ不可侵条約により、ソ連は英米などの資本主義国と全体主義国ドイツを敵に回して戦う恐れが無くなり、最も、この条約の恩恵を受ける事ができた。
ソ連は、中立を保っている間に国力と戦力の大増強を図る事ができた。
それに反して、ドイツは、ソ連と組んでポーランドを侵略したために、英仏と反共の協同戦線を張って、共産主義国家ソ連を倒すべきなのに、英仏と戦う羽目に陥ってしまった。
フランスに親独のヴィシー政権が出来ると、ヨーロッパでドイツを脅かすのは、ソ連のみとなり、ナチスの本来の主義である、反ユダヤと反共産主義に従って、ドイツは、独ソ不可侵条約を反故にしてソ連に攻め込んだ。
「外交上の約束は、軍事力と表裏一体にあって、軍事力で担保されなければ、ただの紙切れにすぎず、すぐに破られるものである」と言う実例だった。

独ソ戦2
1939年9月1日ドイツ軍がポーランドに侵攻して、第2次世界大戦が始まった。ソ連軍もドイツ軍に少し遅れて、9月20日前頃からポーランドに侵攻して、独ソ両国によるポーランド分割が行われる事となった。
この時点では、独ソ両国は、協力体制にあり、全体主義体制にある両国によるヨーロッパ分割が行われる可能性も高かった。
英仏と戦争状態に入ったドイツとしては、東西2正面作戦に陥る事態を避けるため、ソ連と手を握る必要があった。
ドイツは、1939年9月28日、モスクワで、独ソ友好条約に調印した。
1940年5月、イギリスに、チャーチル戦時内閣が成立し、独ソの協力体制を粉砕して、ソ連を英仏側よりにさせるべく、巧みな謀略活動が、行われて行く。
1937年11月に結ばれた、日独伊3国防共協定を発展させて、1940年9月、日独伊3国同盟が調印され、ソ連の世界中に共産主義国家を作ろうとする試みに、待ったを掛ける事になった。
ソ連はこれに対して敏感に反応した。1940年11月、モロトフソ連外相がベルリンを訪問し、ソ連の枢軸国側参戦問題についての話し合いで、ドイツの飲めないような参戦条件を突きつけて、交渉が決裂した。
(参考図書)
ソ連の枢軸国側にたっての参戦交渉の決裂を受けて、1939年12月、ヒトラーは、バルバロッサ作戦(ソ連侵略戦争)の準備を命じた。日本の駐独大島大使は、リッペントロップ外相からバルバロッサ作戦を知らされて、東京に最高外交機密暗号で打電した。
この暗号は、英米に解読されて、ワシントンでソ連大使に伝えられ、直ちにモスクワの知るところとなった。
但しスターリンは、ドイツがそのような無謀な事をするとは信じられず、1941年6月22日、ドイツ軍が侵攻してきても、「ドイツ軍の挑発に乗ってはならない」と命令していた。
ドイツ軍侵攻から12時間経っても、反撃命令を出すのをためらっていた。
そのため前線の赤軍と国境警備隊は、あっという間に撃破されて、ソ連空軍の航空機も2,000機破壊され、制空権を奪われた。
スターリンの赤軍大粛清によって、優秀な指揮官が失われていた事も大きかった。但し、独ソ戦開始前から、ノモンハンの英雄、ジューコフが参謀総長に就いていたため、ソ連軍の崩壊が避けられた。
(参考図書)
中国の参戦3
OROは、1950年9月頃から朝鮮戦争における核兵器使用のための、検討作業に入った。1951年3月に最終レポート「核兵器の戦術的使用」が完成した。
中間レポートとして
(1)中国軍の戦術基盤になっている中国領内の拠点
(2)清川の核防御
なども作成された。
しかし軍当局は以下のような理由で、核使用に消極的だった。
(1)核攻撃をするためには、東京の極東軍司令部や、ワシントンの許可を得なければならず、許可が得られたとしても、爆撃機に積んでから、前線の爆撃地点まで、核爆弾を運搬するまでに時間が掛かりすぎる。
OROの研究では、目標発見から爆弾投下までに、最短でも11時間必要と見積もられた。11時間も経てば、目標がどこかに行ってしまって、意味が無くなる可能性が出てくる。
(2)敵と味方が接近していれば、味方も放射能汚染でやられてしまう。
(3)朝鮮半島には山が多いため、山をくりぬいて立て篭もる、中国軍にたいしては、核爆弾でも有効な攻撃とならない。

朝鮮戦争における日本は、国連軍の不沈空母として、又兵器や軍需物資の補給基地・修理工場・負傷兵の治療のための病院・兵士の慰安場所など、様々な意味で、なくてはならない役割を担っていた。
ミサイルの無い1950年代初頭、制海権・制空権は、国連軍にあったから、日本が攻められる恐れは全く無かった。何かあるとすれば、中ソ共産主義国家の影響による、国内の共産主義勢力によるストライキ位だった。
朝鮮戦争勃発により、日本駐留アメリカ軍が、朝鮮半島に派遣されたため、日本国内の治安維持のために、1950年8月10日、警察予備隊令が公布された。
警察予備隊の定員は、75,000人で、中国軍の人海戦術に対抗するために、警察予備隊をアメリカ軍並みの装備を持つ軍隊にして、朝鮮戦争に参戦する事が、米極東軍司令部で真剣に検討された。
1951年3月1日、アメリカ国務省は、
(1)他の友好国との間で、対日政策において、孤立する恐れがある。
(2)ソ連が日本に攻撃を仕掛ける恐れがある。
(3)日本国内の左翼勢力を中心に、反米の勢いが増して、民衆の支持を失う恐れがある。
などの理由から、警察予備隊の参戦を拒否した。
中間レポートとして
(1)中国軍の戦術基盤になっている中国領内の拠点
(2)清川の核防御
なども作成された。
しかし軍当局は以下のような理由で、核使用に消極的だった。
(1)核攻撃をするためには、東京の極東軍司令部や、ワシントンの許可を得なければならず、許可が得られたとしても、爆撃機に積んでから、前線の爆撃地点まで、核爆弾を運搬するまでに時間が掛かりすぎる。
OROの研究では、目標発見から爆弾投下までに、最短でも11時間必要と見積もられた。11時間も経てば、目標がどこかに行ってしまって、意味が無くなる可能性が出てくる。
(2)敵と味方が接近していれば、味方も放射能汚染でやられてしまう。
(3)朝鮮半島には山が多いため、山をくりぬいて立て篭もる、中国軍にたいしては、核爆弾でも有効な攻撃とならない。

朝鮮戦争における日本は、国連軍の不沈空母として、又兵器や軍需物資の補給基地・修理工場・負傷兵の治療のための病院・兵士の慰安場所など、様々な意味で、なくてはならない役割を担っていた。
ミサイルの無い1950年代初頭、制海権・制空権は、国連軍にあったから、日本が攻められる恐れは全く無かった。何かあるとすれば、中ソ共産主義国家の影響による、国内の共産主義勢力によるストライキ位だった。
朝鮮戦争勃発により、日本駐留アメリカ軍が、朝鮮半島に派遣されたため、日本国内の治安維持のために、1950年8月10日、警察予備隊令が公布された。
警察予備隊の定員は、75,000人で、中国軍の人海戦術に対抗するために、警察予備隊をアメリカ軍並みの装備を持つ軍隊にして、朝鮮戦争に参戦する事が、米極東軍司令部で真剣に検討された。
1951年3月1日、アメリカ国務省は、
(1)他の友好国との間で、対日政策において、孤立する恐れがある。
(2)ソ連が日本に攻撃を仕掛ける恐れがある。
(3)日本国内の左翼勢力を中心に、反米の勢いが増して、民衆の支持を失う恐れがある。
などの理由から、警察予備隊の参戦を拒否した。
中国の参戦2
中国軍の参戦は、主に陸軍によるものだったが、国連軍を最も驚かせたのは、ソ連製の最新鋭ジェット戦闘機MIGー15を、中国空軍が使用してきた事だった。
朝鮮半島上空の制空権が、国連軍の最重要項目だったから、朝鮮半島戦線でアメリカ空軍の保有するいかなる戦闘機よりも、性能の勝るMIGー15の出現は、アメリカ軍を驚愕させた。
MIGー15と互角の勝負のできる唯一のジェット戦闘機は、まだアメリカ本土にのみ配備されていたFー86だったので、急遽朝鮮戦争の最前線にFー86を送り込んだ。
1950年11月1日にMIGー15が、戦闘に加わると、レシプロ機では、歯が立たなかった。朝鮮半島戦線にいたアメリカ空軍のジェット戦闘機F9Fパンサー・F−84サンダージェット・Fー80シューテイングスターもMIG−15の敵ではなかった。
最大速度が、レシプロ機の最優秀機F4Uコルセアで毎時718キロに対して、MIGー15は、毎時1,076キロ。空中戦で重要な、初期上昇率が、F4Uコルセアの毎分1,180メートルに対して、MIGー15では、毎分3,000メートルだった。
とは言うものの、パイロットの熟練度には、相当の開きがあり、F−86が戦闘に参加するようになると、MIG−15の勝つ確率は、1割程度になってしまった。
(参考図書)
何故中国軍は、貧弱な兵器で、世界最強のアメリカ軍を中心とする国連軍に、1950年10月25日の参戦以来1951年4月の大敗迄、勝ち続ける事ができたのであろうか。
その理由としては、以下の様な事が考えられる。勿論圧倒的な兵力差があった事が一番の理由だが。
(1)山の多い朝鮮半島では、身を隠す事も容易で、中国軍の大規模介入を隠密裏に行う事ができた。介入後も山岳地形を利用して、空からの攻撃も防ぎつつ作戦行動を行う事ができた。
(2)毛沢東の「敵の10本の指にすべてけがを負わせるより、敵の1本の指を完全に切るべし」という言葉に従い、一点に兵力を集中して、敵の防衛線の一角に穴が開くと、そこから大部隊を進入させて、包囲殲滅した。
(3)ソ連の全面的バックアップにより、空軍のMIG−15ジェット戦闘機に代表されるように、アメリカ軍を上回るような兵器も使用できた。
(4)国連軍首脳が、中国軍の大規模介入はないだろうと、油断していた。
(5)平壌から中朝国境を目指す第8軍と、元山に敵前上陸して、そこから中朝国境を目指す第10軍団との間に意思の疎通が乏しく、ばらばらに進撃したため、両軍の間に80キロ以上の隙間ができたため、そこから中国軍が、侵入してきた。
中国軍の大規模な介入により、危機的状況に陥った国連軍の究極の対策として、総司令官マッカーサー元帥は、中国本土への核攻撃を考えるようになった。強固な反共主義者のマッカーサーは、この機会に共産中国を核兵器を使って、倒す事を夢想した。
とりあえず中国東北地方の中朝国境付近に核攻撃を行い、朝鮮半島の中国軍の兵站基地と予備兵力を粉砕する。それによって中国軍主力が壊滅したら、中国から共産主義勢力を一掃する。
しかしトルーマン大統領は、中ソを敵に回す、第3次世界大戦を引き起こしかねない、マッカーサーの中国本土に対する核攻撃計画は、非現実的なものと退けた。
但し、朝鮮半島での戦術的核兵器の使用については、大いに検討の余地があるとして、プロジェクトチーム(ORO オペレーションズ・リサーチ・オフィス)がワシントンで編成され、東京の極東軍司令部に派遣されて、研究がなされた。
OROのスタッフの多くは、ジョンズ・ホプキンス大学の研究者だった。


朝鮮半島上空の制空権が、国連軍の最重要項目だったから、朝鮮半島戦線でアメリカ空軍の保有するいかなる戦闘機よりも、性能の勝るMIGー15の出現は、アメリカ軍を驚愕させた。
MIGー15と互角の勝負のできる唯一のジェット戦闘機は、まだアメリカ本土にのみ配備されていたFー86だったので、急遽朝鮮戦争の最前線にFー86を送り込んだ。
1950年11月1日にMIGー15が、戦闘に加わると、レシプロ機では、歯が立たなかった。朝鮮半島戦線にいたアメリカ空軍のジェット戦闘機F9Fパンサー・F−84サンダージェット・Fー80シューテイングスターもMIG−15の敵ではなかった。
最大速度が、レシプロ機の最優秀機F4Uコルセアで毎時718キロに対して、MIGー15は、毎時1,076キロ。空中戦で重要な、初期上昇率が、F4Uコルセアの毎分1,180メートルに対して、MIGー15では、毎分3,000メートルだった。
とは言うものの、パイロットの熟練度には、相当の開きがあり、F−86が戦闘に参加するようになると、MIG−15の勝つ確率は、1割程度になってしまった。
(参考図書)
何故中国軍は、貧弱な兵器で、世界最強のアメリカ軍を中心とする国連軍に、1950年10月25日の参戦以来1951年4月の大敗迄、勝ち続ける事ができたのであろうか。
その理由としては、以下の様な事が考えられる。勿論圧倒的な兵力差があった事が一番の理由だが。
(1)山の多い朝鮮半島では、身を隠す事も容易で、中国軍の大規模介入を隠密裏に行う事ができた。介入後も山岳地形を利用して、空からの攻撃も防ぎつつ作戦行動を行う事ができた。
(2)毛沢東の「敵の10本の指にすべてけがを負わせるより、敵の1本の指を完全に切るべし」という言葉に従い、一点に兵力を集中して、敵の防衛線の一角に穴が開くと、そこから大部隊を進入させて、包囲殲滅した。
(3)ソ連の全面的バックアップにより、空軍のMIG−15ジェット戦闘機に代表されるように、アメリカ軍を上回るような兵器も使用できた。
(4)国連軍首脳が、中国軍の大規模介入はないだろうと、油断していた。
(5)平壌から中朝国境を目指す第8軍と、元山に敵前上陸して、そこから中朝国境を目指す第10軍団との間に意思の疎通が乏しく、ばらばらに進撃したため、両軍の間に80キロ以上の隙間ができたため、そこから中国軍が、侵入してきた。
中国軍の大規模な介入により、危機的状況に陥った国連軍の究極の対策として、総司令官マッカーサー元帥は、中国本土への核攻撃を考えるようになった。強固な反共主義者のマッカーサーは、この機会に共産中国を核兵器を使って、倒す事を夢想した。
とりあえず中国東北地方の中朝国境付近に核攻撃を行い、朝鮮半島の中国軍の兵站基地と予備兵力を粉砕する。それによって中国軍主力が壊滅したら、中国から共産主義勢力を一掃する。
しかしトルーマン大統領は、中ソを敵に回す、第3次世界大戦を引き起こしかねない、マッカーサーの中国本土に対する核攻撃計画は、非現実的なものと退けた。
但し、朝鮮半島での戦術的核兵器の使用については、大いに検討の余地があるとして、プロジェクトチーム(ORO オペレーションズ・リサーチ・オフィス)がワシントンで編成され、東京の極東軍司令部に派遣されて、研究がなされた。
OROのスタッフの多くは、ジョンズ・ホプキンス大学の研究者だった。

青春時代3
東大法学部を卒業したのに、「4年生をもう最高で4年できる制度を利用して司法試験の受験勉強をする」と親に言ってはいたものの、実際には、何もやっていなかった。ただドライブをしたり、テレビを見たりしていただけだった。
公法コースを卒業して、政治コースを取っていたのだが、政治コースの1年目の秋頃には、ペンフレンドで知り合った19歳の女性と1週間おきにドライブに出かけるようになって、これではいけないと思い始めた。
結婚を意識するようになって、「何か仕事に就かなければ」と思うようになっていた。「来年の司法試験を最後に、司法試験とはきっぱりおさらばしなければ」という思いだった。
5月の短答試験で落ちていたので、取れそうな法律系の資格と言う事で、10月の宅地建物取引主任者の資格試験を受けてみようと、思い立った。
前年の8月に受けた社会保険労務士試験に思いがけなく受かったので、「不動産小6法」と言った名前だったと思うのだが、1000円位の不動産関係の6法の本が持ち込み許可の時代だったので、その本を引き慣れていれば、案外簡単だと判断したのだ。
例のごとくまず本屋に行って、過去問の問題集と、薄い参考書、不動産小6法を買い求めた。10月まで半年も準備期間もないし、司法試験の受験勉強も平行してやるつもりだったから、厚い参考書を読んでいる時間的余裕は、無かった。
大学受験でも暗記科目は薄い参考書をやって成功していたから、そのやり方が自分の受験スタイルとして、定着していた。

公法コースを卒業して、政治コースを取っていたのだが、政治コースの1年目の秋頃には、ペンフレンドで知り合った19歳の女性と1週間おきにドライブに出かけるようになって、これではいけないと思い始めた。
結婚を意識するようになって、「何か仕事に就かなければ」と思うようになっていた。「来年の司法試験を最後に、司法試験とはきっぱりおさらばしなければ」という思いだった。
5月の短答試験で落ちていたので、取れそうな法律系の資格と言う事で、10月の宅地建物取引主任者の資格試験を受けてみようと、思い立った。
前年の8月に受けた社会保険労務士試験に思いがけなく受かったので、「不動産小6法」と言った名前だったと思うのだが、1000円位の不動産関係の6法の本が持ち込み許可の時代だったので、その本を引き慣れていれば、案外簡単だと判断したのだ。
例のごとくまず本屋に行って、過去問の問題集と、薄い参考書、不動産小6法を買い求めた。10月まで半年も準備期間もないし、司法試験の受験勉強も平行してやるつもりだったから、厚い参考書を読んでいる時間的余裕は、無かった。
大学受験でも暗記科目は薄い参考書をやって成功していたから、そのやり方が自分の受験スタイルとして、定着していた。
中国の参戦
釜山橋頭堡に追い詰められた国連軍地上部隊を、救ったのは、紛れも無く米極東空軍だった。米極東空軍は、東京に司令部があり、第5空軍(日本)・第20空軍(沖縄・硫黄島・グアム)・第13空軍(フィリピン)・極東補給部隊・極東空軍基地で構成されていた。
米極東空軍は、1950年6月28日から本格的に朝鮮戦争に参戦し、緒戦の段階では、まず制空権の確保のため、北朝鮮空軍の壊滅が、目標とされた。
北朝鮮空軍は、ソ連から供与されたYAK9戦闘機やIL10地上攻撃機150機などを保有していたが、F80戦闘機365機など総数1,172機を有する米極東空軍の敵では無かった。
第2次世界大戦を経験した、歴戦のつわもの揃いのベテランパイロットが、多数いるアメリカ空軍の前に、数日で北朝鮮空軍は、ほとんど壊滅し、朝鮮半島上空の制空権は、国連軍のものとなった。
北朝鮮陸軍の破竹の進撃の原動力だった戦車も、空からの攻撃には、無力で、5インチロケット弾や、ナパーム弾で、破壊された。特にナパーム弾は有効で、45メートル四方を焼き尽くすため、戦車の弾薬を誘爆させたり、燃料に引火したりした。
釜山橋頭堡から総反撃に移った第8軍の指揮官ウオーカー中将と、仁川上陸作戦を行った第10軍団の指揮官アーモンド少将との関係は、微妙なものだった。
軍の組織上からは、第10軍団は、第8軍の指揮下に入るべきなのだが、マッカーサー元帥は、「第10軍団と第8軍とは、離れ過ぎていて、第8軍が、指揮するのは無理であり、又第10軍団の補給は、第8軍の補給ルートとは別なので、総司令部が直接第10軍団を指揮した方が良い」と考えた。
そして第8軍は陸路を北上し、第10軍団は元山に海から上陸して、平壌を包囲すると言う作戦が立てられた。
しかし元山には、陸路から韓国軍が迫っており、アメリカ第10軍団が仁川から元山への海路転進作戦を準備中に、韓国第1軍団が、元山を占領してしまった。
一方第8軍は、釜山橋頭堡から陸路平壌を目指したわけだが、韓国軍と平壌一番乗りを競う格好になった。
38度線を突破して総反撃に出た国連軍に対して、北朝鮮軍は、制空権・制海権とも無い上に、陸軍の攻撃主力の戦車も、破壊され、北朝鮮指導部は、命からがら平壌を脱出するのが、唯一できる事だった。
国連軍は陸路平壌目指して進撃するとともに、北朝鮮首脳と軍主力の捕獲と撃滅のために、第187空挺連隊戦闘団を、粛川・順川地域に降下させた。
空挺連隊の奇襲作戦は、ほとんど抵抗らしい抵抗も無く成功したが、これは、北朝鮮首脳と北朝鮮軍主力が、既に逃げてしまっていたためだった。
この勢いなら、年内には、中朝国境まで占領するのも、たやすいと思われたが、開戦前のスターリンと毛沢東との極秘会談で、北朝鮮が無くなるような事態になりそうな場合には、中国軍が参戦する事になっていたため、中朝国境には、開戦当初から100万人以上の中国軍が中国全土から集結しつつあった。
国連軍が38度線を大きく越えて、鴨緑江まで進出しかねなくなった10月になると、中国軍は、朝鮮戦争に参戦する事を決定した。
10月25日、第1陣として20万の中国軍が、鴨緑江を超えて国連軍に襲い掛かった。更に80万の中国軍がこれに続き、総計100万の中国軍が、北朝鮮に入った。
開戦初頭で北朝鮮空軍をほとんど無力化して制空権を握った国連軍は、空からの攻撃で北朝鮮軍の補給を困難にし、戦車を中心とする北朝鮮軍をほとんど壊滅した。
1950年10月北朝鮮軍が壊滅状態になり、朝鮮半島が、国連軍によって統一されそうになると、戦前の打ち合わせどうり、10月25日より中国軍が大々的に介入してきた。
1950年10月19日から28日の間に中国軍12個歩兵師団・3個砲兵師団合計26万人が、夜間を利用して鴨緑江を渡り、中部山岳地帯に布陣した。
10月25日韓国軍に対する攻撃を開始し、以降猛烈なスピードで進撃して、12月6日には、平壌を占領した。更に12月中旬までには、100万人の大軍を動員して、38度線以北の北朝鮮領土を回復した。
1月から38度線を越えて、朝鮮半島を共産主義で統一するために進撃を開始した。
国連軍が中国軍の人海戦術に対抗するためには、空からの爆撃と、大砲などによる火力しか無かった。

中国軍の参戦は、主に陸軍によるものだったが、国連軍を最も驚かせたのは、ソ連製の最新鋭ジェット戦闘機MIGー15を、中国空軍が使用してきた事だった。
朝鮮半島上空の制空権が、国連軍の最重要項目だったから、朝鮮半島戦線でアメリカ空軍の保有するいかなる戦闘機よりも、性能の勝るMIGー15の出現は、アメリカ軍を驚愕させた。
MIGー15と互角の勝負のできる唯一のジェット戦闘機は、まだアメリカ本土にのみ配備されていたFー86だったので、急遽朝鮮戦争の最前線にFー86を送り込んだ。
1950年11月1日にMIGー15が、戦闘に加わると、レシプロ機では、歯が立たなかった。朝鮮半島戦線にいたアメリカ空軍のジェット戦闘機F9Fパンサー・F−84サンダージェット・Fー80シューテイングスターもMIG−15の敵ではなかった。
最大速度が、レシプロ機の最優秀機F4Uコルセアで毎時718キロに対して、MIGー15は、毎時1,076キロ。空中戦で重要な、初期上昇率が、F4Uコルセアの毎分1,180メートルに対して、MIGー15では、毎分3,000メートルだった。
とは言うものの、パイロットの熟練度には、相当の開きがあり、F−86が戦闘に参加するようになると、MIG−15の勝つ確率は、1割程度になってしまった。
(参考図書)
米極東空軍は、1950年6月28日から本格的に朝鮮戦争に参戦し、緒戦の段階では、まず制空権の確保のため、北朝鮮空軍の壊滅が、目標とされた。
北朝鮮空軍は、ソ連から供与されたYAK9戦闘機やIL10地上攻撃機150機などを保有していたが、F80戦闘機365機など総数1,172機を有する米極東空軍の敵では無かった。
第2次世界大戦を経験した、歴戦のつわもの揃いのベテランパイロットが、多数いるアメリカ空軍の前に、数日で北朝鮮空軍は、ほとんど壊滅し、朝鮮半島上空の制空権は、国連軍のものとなった。
北朝鮮陸軍の破竹の進撃の原動力だった戦車も、空からの攻撃には、無力で、5インチロケット弾や、ナパーム弾で、破壊された。特にナパーム弾は有効で、45メートル四方を焼き尽くすため、戦車の弾薬を誘爆させたり、燃料に引火したりした。
釜山橋頭堡から総反撃に移った第8軍の指揮官ウオーカー中将と、仁川上陸作戦を行った第10軍団の指揮官アーモンド少将との関係は、微妙なものだった。
軍の組織上からは、第10軍団は、第8軍の指揮下に入るべきなのだが、マッカーサー元帥は、「第10軍団と第8軍とは、離れ過ぎていて、第8軍が、指揮するのは無理であり、又第10軍団の補給は、第8軍の補給ルートとは別なので、総司令部が直接第10軍団を指揮した方が良い」と考えた。
そして第8軍は陸路を北上し、第10軍団は元山に海から上陸して、平壌を包囲すると言う作戦が立てられた。
しかし元山には、陸路から韓国軍が迫っており、アメリカ第10軍団が仁川から元山への海路転進作戦を準備中に、韓国第1軍団が、元山を占領してしまった。
一方第8軍は、釜山橋頭堡から陸路平壌を目指したわけだが、韓国軍と平壌一番乗りを競う格好になった。
38度線を突破して総反撃に出た国連軍に対して、北朝鮮軍は、制空権・制海権とも無い上に、陸軍の攻撃主力の戦車も、破壊され、北朝鮮指導部は、命からがら平壌を脱出するのが、唯一できる事だった。
国連軍は陸路平壌目指して進撃するとともに、北朝鮮首脳と軍主力の捕獲と撃滅のために、第187空挺連隊戦闘団を、粛川・順川地域に降下させた。
空挺連隊の奇襲作戦は、ほとんど抵抗らしい抵抗も無く成功したが、これは、北朝鮮首脳と北朝鮮軍主力が、既に逃げてしまっていたためだった。
この勢いなら、年内には、中朝国境まで占領するのも、たやすいと思われたが、開戦前のスターリンと毛沢東との極秘会談で、北朝鮮が無くなるような事態になりそうな場合には、中国軍が参戦する事になっていたため、中朝国境には、開戦当初から100万人以上の中国軍が中国全土から集結しつつあった。
国連軍が38度線を大きく越えて、鴨緑江まで進出しかねなくなった10月になると、中国軍は、朝鮮戦争に参戦する事を決定した。
10月25日、第1陣として20万の中国軍が、鴨緑江を超えて国連軍に襲い掛かった。更に80万の中国軍がこれに続き、総計100万の中国軍が、北朝鮮に入った。
開戦初頭で北朝鮮空軍をほとんど無力化して制空権を握った国連軍は、空からの攻撃で北朝鮮軍の補給を困難にし、戦車を中心とする北朝鮮軍をほとんど壊滅した。
1950年10月北朝鮮軍が壊滅状態になり、朝鮮半島が、国連軍によって統一されそうになると、戦前の打ち合わせどうり、10月25日より中国軍が大々的に介入してきた。
1950年10月19日から28日の間に中国軍12個歩兵師団・3個砲兵師団合計26万人が、夜間を利用して鴨緑江を渡り、中部山岳地帯に布陣した。
10月25日韓国軍に対する攻撃を開始し、以降猛烈なスピードで進撃して、12月6日には、平壌を占領した。更に12月中旬までには、100万人の大軍を動員して、38度線以北の北朝鮮領土を回復した。
1月から38度線を越えて、朝鮮半島を共産主義で統一するために進撃を開始した。
国連軍が中国軍の人海戦術に対抗するためには、空からの爆撃と、大砲などによる火力しか無かった。
中国軍の参戦は、主に陸軍によるものだったが、国連軍を最も驚かせたのは、ソ連製の最新鋭ジェット戦闘機MIGー15を、中国空軍が使用してきた事だった。
朝鮮半島上空の制空権が、国連軍の最重要項目だったから、朝鮮半島戦線でアメリカ空軍の保有するいかなる戦闘機よりも、性能の勝るMIGー15の出現は、アメリカ軍を驚愕させた。
MIGー15と互角の勝負のできる唯一のジェット戦闘機は、まだアメリカ本土にのみ配備されていたFー86だったので、急遽朝鮮戦争の最前線にFー86を送り込んだ。
1950年11月1日にMIGー15が、戦闘に加わると、レシプロ機では、歯が立たなかった。朝鮮半島戦線にいたアメリカ空軍のジェット戦闘機F9Fパンサー・F−84サンダージェット・Fー80シューテイングスターもMIG−15の敵ではなかった。
最大速度が、レシプロ機の最優秀機F4Uコルセアで毎時718キロに対して、MIGー15は、毎時1,076キロ。空中戦で重要な、初期上昇率が、F4Uコルセアの毎分1,180メートルに対して、MIGー15では、毎分3,000メートルだった。
とは言うものの、パイロットの熟練度には、相当の開きがあり、F−86が戦闘に参加するようになると、MIG−15の勝つ確率は、1割程度になってしまった。
(参考図書)
38度線突破

国連軍の釜山橋頭堡には、次々に兵員・軍需物資が陸揚げされて、9月1日頃には、北朝鮮軍の2倍近い戦力が整った。
北朝鮮軍 国連軍
(1)兵力 98,000人 176,000人
(2)大砲 250〜300門 400門
(3)戦車 100両 600両
(4)空軍 0 1個師団あたり40機
(5)海軍 0 第7艦隊
アメリカ軍の大規模な援軍が来る前に、韓国軍を海に追い落とすべく、北朝鮮軍は8月攻勢をかけたが失敗し、退却前に再度9月攻勢をかけたが、失敗に終わった。
太平洋戦争における日本軍との戦いで、海からの敵前上陸に慣れたマッカーサーは、釜山橋頭堡を包囲する北朝鮮軍の背後を突くべく、仁川上陸作戦を計画した。この作戦に成功すれば、仁川上陸予定の第10軍団と、釜山橋頭堡を守る第8軍団で、釜山橋頭堡を包囲する北朝鮮軍を、包囲殲滅する事が可能になる。
釜山橋頭堡が、臨時海兵旅団と第2師団の到着の見込みにより、確保される可能性が高くなると、マッカーサー元帥は、仁川上陸作戦により、北朝鮮軍の補給路を断ち、挟み撃ちにする構想を現実化するべく、1951年7月「ブルーハート計画」を作った。
「ブルーハート計画」では、第1騎兵旅団を投入する予定だったが、第1騎兵旅団は、韓国南部の防衛に使わざるを得なくなり、7月23日、「クロマイト計画」を作って、第1海兵旅団・第7師団・韓国軍の一部で、第10軍団を作り、仁川上陸作戦を行う事になった。
1950年9月15日、国連軍反攻の第1歩、仁川上陸作戦が決行された。
仁川は、干満の差が大きく、また砂浜が無いため上陸用舟艇が接岸するのに、困難な地形だった。海岸には、防潮堤が築かれており、場所によっては、高さ5メートルの岸壁を、はしごを使って乗り越えなければ、ならなかった。
しかし北朝鮮軍は、釜山橋頭堡突破に全力を注いでいたため、仁川の防御には、全部で2,000人程度で、上陸前の艦砲射撃や空爆で粉砕し、たいした抵抗もなく、上陸できた。
仁川上陸作戦の成功により、形勢は一気に逆転し、洛東江に張り付いていた北朝鮮軍は、蜘蛛の子を散らすように、何処かに消えてしまった。9月中旬頃迄には、まだ7万人程いたと推定された洛東江戦線の北朝鮮軍は、9月21日頃には、崩壊し、消滅した。
北朝鮮軍は、開戦当初からの歴戦の兵士は激減して、、新兵と占領地での強制徴募兵に取って代わっており、9月15日の仁川上陸作戦以降、後退命令が出ると、国連軍に投降するか、何処とも無く消えてしまう者が続出した。
北朝鮮軍として残った者は1〜2万名で、山に逃れてゲリラ活動を行った。
ソウルも占領した国連軍の次の選択肢は、
(1)38度線を越えて、朝鮮半島を統一するか
(2)38度線で停止して、中国やソ連との外交交渉を行うか
の内、何れが妥当か、と言う事だった。
マッカーサー元帥は、当初から北朝鮮軍壊滅が目的であり、韓国の李承晩(リスンマン)大統領も北朝鮮軍が38度線を超えた以上、38度線は存在しないと表明した。この機会に国連軍の力によって、朝鮮半島統一の悲願を達成しようと考えた訳である。

CIAからも中国軍介入の警告が出ていたが、38度線まで進出した勢いは、止められるはずも無く、韓国の李承晩大統領は、9月30日、韓国軍に対して、38度線突破を命じた。
しかし韓国軍は国連軍司令官の指揮下にあり、韓国軍の丁一権(チョンイルグオン)参謀総長は、38度線近くの高地から攻撃してくる北朝鮮軍に対する防御的攻撃と言う形で、なし崩し的に38度線突破していく事とした。
韓国軍は、第8軍司令官ウオーカー中将の指揮下にあったため、丁一権参謀総長は、ウオーカー中将の承認を取り付けた後、10月1日午前11時25分、38度線突破を命令した。
10月1日、マッカーサー元帥も北朝鮮軍に降伏を勧告した。2日「10月3日午前0時以降、38度線の突破を命ずる」と言う一般命令第2号を発した。
これを受けて、10月6日、韓国第2軍団は38度線を突破した。
しかし、中国と北朝鮮国境には、約30万の中国軍が、いまや遅しとその出番を待っていた。更に東北部に移動中の中国軍は、90万人と見積もられた。ソ連も各種近代兵器を援助して、北朝鮮軍の全面的バックアップを行い、空軍のパイロットは直接戦闘に参加する予定となっていた。
言わば、世界中の共産主義対資本主義の全面対決といった様相を呈しつつあった。

ミッドウエー海戦2
1942年6月3日、ミッドウエー作戦に用意された日本軍の戦力は、以下の通りだった。
(1)潜水艦16隻 ミッドウエー海戦の戦闘現場にいなかった。後から空母ヨークタウンに魚雷を命中させたのが、唯一の戦果だった。
(2)空母4隻 赤城・加賀・飛龍・蒼龍
(3)輸送船12隻 ミッドウエー攻撃用陸戦部隊5,000人乗船
(4)戦艦7隻・軽空母1隻 戦艦大和に山本五十六長官乗船
陽動作戦の西部アリューシャン列島攻撃用北方部隊
(5)軽空母2隻・重巡2隻・大型輸送船4隻
以上の他、軍艦・補助艦艇で総計162隻。当時の日本海軍のほとんど全てだった。
日本軍の作戦は、6月3日、北方部隊でまず、ダッチハーバーを爆撃してから、アッツ島・キスカ島を占領する。この攻撃でアメリカ太平洋艦隊を北に誘い込む。
6月6日、手薄になったミッドウエー島を占領し、ミッドウエー島の飛行場を不沈空母として、アメリカ太平洋艦隊を撃滅する。
日本側の作戦を事前に知っていたアメリカ側のニミッツ提督は、ミッドウエー島を不沈空母として、ミッドウエー島後方に空母部隊を展開して待ち構えていた。アメリカ側の戦力は以下の通りだった。
(1)主力の空母3隻
エンタープライズ・ホーネット・ヨークタウンで構成する空母打撃部隊の指揮官は、珊瑚海海戦の歴戦のつわもの、フレッチャー少将。
その部下に東京空襲のハルゼーの、第16任務部隊の臨時司令官スプルーアンス少将
更にスプルーアンス少将の指揮するエンタープライズ・ホーネットの指揮官は、マリイー大佐とミッチャー大佐。
(2)ミッドウエー島に配備されていた飛行機
海軍のカタリーナ飛行艇 32機
雷撃機アベンジャー 6機
海兵隊機 54機
陸軍機 23機(19機はB17)
ニミッツ提督の準備できた戦艦その他は、合計76隻。
ニミッツ提督は、フレッチャーとスプルーアンスに日本軍の索敵範囲の外側に空母部隊を配置するように厳命した。アメリカ側は、ミッドウエー島の飛行機で索敵を行えば良いからだ。
1942年4月18日、アメリカ海軍の空母ホーネットを飛び立ったB−25は、超低空飛行で東京・横浜・横須賀に奇襲爆撃を行い、連戦連勝で浮ついていた日本の心胆を寒からしめた。
一つ間違えば皇居が爆撃されていたかも知れない訳で、日本軍は直ちに、アメリカ空母部隊撃滅のための、作戦を実行する準備に取り掛かった。
山本五十六連合艦隊司令長官発案の「ミッドウエー島占領と、アメリカ空母部隊撃滅」の一石二鳥のミッドウエー作戦が行われる事に決定した。
ミッドウエー島は、日本軍の暗号名は、AFだったが、アメリカ軍の情報部では、ミッドウエー島の飲料水ろ過器故障の偽の連絡を行って、AFが、ミッドウエー島を意味する事を突き止めた。
そのため、日本軍のミッドウエー島攻撃作戦の日にちもわかり、日本軍の攻撃をてぐすね引いて、待ち構える事ができた。奇襲されるのは、日本軍の方だった。
アメリカ軍の作戦は、ミッドウエー島に対する日本軍の第1次攻撃機が給油のために、空母に帰ってきた時を狙って、デバステーター雷撃機及びドーントレス急降下爆撃機などで波状攻撃する。
そうすれば、甲板上の飛行機の積んだ爆弾や魚雷などに誘爆して、大爆発が起き、空母を沈没乃至大破できる。
1942年6月4日、太平洋戦争の戦局の転換点となったミッドウエー海戦は、日本軍のミッドウエー島爆撃で始まった。 ミッドウエー島の攻撃は、空軍の迎撃と地上の対空砲火により、思った程の戦果を上げられず、友永大尉を隊長とする、第1次攻撃隊は、給油及び魚雷乃至爆弾を、再度取り付けるため、空しく空母に帰ってきた。
ところが、空母の方では、第2次攻撃隊の装備を魚雷から爆弾へ、積み替えしている途中で、索敵機から、敵空母発見の知らせが来たため、また、爆弾から魚雷へ積み替え直している所だった。
仕方がないので、第2次攻撃隊の準備は後回しにして、第1次攻撃隊の空母への収容を優先させる事になった。でないと、第1次攻撃隊の飛行機が、燃料切れで海の藻屑になってしまうから。
第1次攻撃隊の収容がやっと終わり、第2次攻撃隊の魚雷への積み替え作業中にドーントレス急降下爆撃機の攻撃が、やってきた。
空母護衛の戦闘機が、その前にやって来た雷撃機との戦闘で、低空飛行になってしまったため、高空から急降下してくる、急降下爆撃機を撃墜する事ができず、甲板上の魚雷などに誘爆して、大爆発を起こした。
日本は、空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)・巡洋艦1隻(三隈)・航空機332機とベテランパイロット多数を失い、アメリカの空母1隻(ヨークタウン)・航空機137機の損害と比べて、比較にならない程の損害を被った。
(1)潜水艦16隻 ミッドウエー海戦の戦闘現場にいなかった。後から空母ヨークタウンに魚雷を命中させたのが、唯一の戦果だった。
(2)空母4隻 赤城・加賀・飛龍・蒼龍
(3)輸送船12隻 ミッドウエー攻撃用陸戦部隊5,000人乗船
(4)戦艦7隻・軽空母1隻 戦艦大和に山本五十六長官乗船
陽動作戦の西部アリューシャン列島攻撃用北方部隊
(5)軽空母2隻・重巡2隻・大型輸送船4隻
以上の他、軍艦・補助艦艇で総計162隻。当時の日本海軍のほとんど全てだった。
日本軍の作戦は、6月3日、北方部隊でまず、ダッチハーバーを爆撃してから、アッツ島・キスカ島を占領する。この攻撃でアメリカ太平洋艦隊を北に誘い込む。
6月6日、手薄になったミッドウエー島を占領し、ミッドウエー島の飛行場を不沈空母として、アメリカ太平洋艦隊を撃滅する。
日本側の作戦を事前に知っていたアメリカ側のニミッツ提督は、ミッドウエー島を不沈空母として、ミッドウエー島後方に空母部隊を展開して待ち構えていた。アメリカ側の戦力は以下の通りだった。
(1)主力の空母3隻
エンタープライズ・ホーネット・ヨークタウンで構成する空母打撃部隊の指揮官は、珊瑚海海戦の歴戦のつわもの、フレッチャー少将。
その部下に東京空襲のハルゼーの、第16任務部隊の臨時司令官スプルーアンス少将
更にスプルーアンス少将の指揮するエンタープライズ・ホーネットの指揮官は、マリイー大佐とミッチャー大佐。
(2)ミッドウエー島に配備されていた飛行機
海軍のカタリーナ飛行艇 32機
雷撃機アベンジャー 6機
海兵隊機 54機
陸軍機 23機(19機はB17)
ニミッツ提督の準備できた戦艦その他は、合計76隻。
ニミッツ提督は、フレッチャーとスプルーアンスに日本軍の索敵範囲の外側に空母部隊を配置するように厳命した。アメリカ側は、ミッドウエー島の飛行機で索敵を行えば良いからだ。
1942年4月18日、アメリカ海軍の空母ホーネットを飛び立ったB−25は、超低空飛行で東京・横浜・横須賀に奇襲爆撃を行い、連戦連勝で浮ついていた日本の心胆を寒からしめた。
一つ間違えば皇居が爆撃されていたかも知れない訳で、日本軍は直ちに、アメリカ空母部隊撃滅のための、作戦を実行する準備に取り掛かった。
山本五十六連合艦隊司令長官発案の「ミッドウエー島占領と、アメリカ空母部隊撃滅」の一石二鳥のミッドウエー作戦が行われる事に決定した。
ミッドウエー島は、日本軍の暗号名は、AFだったが、アメリカ軍の情報部では、ミッドウエー島の飲料水ろ過器故障の偽の連絡を行って、AFが、ミッドウエー島を意味する事を突き止めた。
そのため、日本軍のミッドウエー島攻撃作戦の日にちもわかり、日本軍の攻撃をてぐすね引いて、待ち構える事ができた。奇襲されるのは、日本軍の方だった。
アメリカ軍の作戦は、ミッドウエー島に対する日本軍の第1次攻撃機が給油のために、空母に帰ってきた時を狙って、デバステーター雷撃機及びドーントレス急降下爆撃機などで波状攻撃する。
そうすれば、甲板上の飛行機の積んだ爆弾や魚雷などに誘爆して、大爆発が起き、空母を沈没乃至大破できる。
1942年6月4日、太平洋戦争の戦局の転換点となったミッドウエー海戦は、日本軍のミッドウエー島爆撃で始まった。 ミッドウエー島の攻撃は、空軍の迎撃と地上の対空砲火により、思った程の戦果を上げられず、友永大尉を隊長とする、第1次攻撃隊は、給油及び魚雷乃至爆弾を、再度取り付けるため、空しく空母に帰ってきた。
ところが、空母の方では、第2次攻撃隊の装備を魚雷から爆弾へ、積み替えしている途中で、索敵機から、敵空母発見の知らせが来たため、また、爆弾から魚雷へ積み替え直している所だった。
仕方がないので、第2次攻撃隊の準備は後回しにして、第1次攻撃隊の空母への収容を優先させる事になった。でないと、第1次攻撃隊の飛行機が、燃料切れで海の藻屑になってしまうから。
第1次攻撃隊の収容がやっと終わり、第2次攻撃隊の魚雷への積み替え作業中にドーントレス急降下爆撃機の攻撃が、やってきた。
空母護衛の戦闘機が、その前にやって来た雷撃機との戦闘で、低空飛行になってしまったため、高空から急降下してくる、急降下爆撃機を撃墜する事ができず、甲板上の魚雷などに誘爆して、大爆発を起こした。
日本は、空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)・巡洋艦1隻(三隈)・航空機332機とベテランパイロット多数を失い、アメリカの空母1隻(ヨークタウン)・航空機137機の損害と比べて、比較にならない程の損害を被った。
ソ連・中国の支援とアメリカの参戦
1948年9月北朝鮮にソ連の全面的バックアップにより、金日成政権が出来ると、スターリン・毛沢東・金日成の3者による北朝鮮の南侵計画が、進められる事になった。
全世界の共産主義化を押し進めつつあったスターリンは、東欧の共産主義化を完成させると、中国の共産主義化もほぼ完成に近付き、朝鮮半島の共産主義化に次の目標を絞りつつあった。
北朝鮮の南侵の最大の障害である、アメリカ軍を朝鮮半島から撤退させるために、ソ連は、1948年2月一方的に北朝鮮から占領ソ連軍を撤兵した。そして、モスクワでソ連国防相主宰による、ソ連・中国・北朝鮮の軍事代表者戦略会議を開催した。
この会議において、1950年6月までに、北朝鮮軍の飛躍的戦力増強により、南侵可能な軍隊を構築する事に合意した。
1949年3月5日、金日成はモスクワを訪問し、スターリンと南北統一・経済支援・軍事力増強などの諸問題を話し合った。特に統一問題では、武力による朝鮮統一で合意がなされた。
開戦3日にして28日には、ソウルが陥落した。韓国軍98,000人は、22,000人に激減してしまった。朝鮮半島は山が多いため戦車は、有効でないと高をくくっていたアメリカが、慌てて日本から第24師団を送り込んだのは、7月1日だった。
7月5日には、烏山北方で北朝鮮軍と交戦したが、北朝鮮軍は、T34/85戦車を中心にソ連製の近代兵器でアメリカ軍を打ち破った。アメリカ軍のM24軽戦車では、T34/85戦車に歯が立たなかった。
7月7日国連安保理事会は、国連軍の創設を決定し、8日国連軍総司令官にマッカーサー元帥が任命された。
国連軍と言っても、実質的には、アメリカ軍がほとんどだったが。
8月には、朝鮮半島最南端の釜山周辺に追い込まれた。しかし釜山を根拠地として日本などから、兵員・軍需物資の大量補給により、洛東江(ナクトンガン)を防衛線として、踏みとどまった。
アメリカ軍が、制空権・制海権を確保していたため、空爆により、北朝鮮軍の進撃速度は急速に衰えて、補給も難しくなってきた。
(参考図書)
全世界の共産主義化を押し進めつつあったスターリンは、東欧の共産主義化を完成させると、中国の共産主義化もほぼ完成に近付き、朝鮮半島の共産主義化に次の目標を絞りつつあった。
北朝鮮の南侵の最大の障害である、アメリカ軍を朝鮮半島から撤退させるために、ソ連は、1948年2月一方的に北朝鮮から占領ソ連軍を撤兵した。そして、モスクワでソ連国防相主宰による、ソ連・中国・北朝鮮の軍事代表者戦略会議を開催した。
この会議において、1950年6月までに、北朝鮮軍の飛躍的戦力増強により、南侵可能な軍隊を構築する事に合意した。
1949年3月5日、金日成はモスクワを訪問し、スターリンと南北統一・経済支援・軍事力増強などの諸問題を話し合った。特に統一問題では、武力による朝鮮統一で合意がなされた。
開戦3日にして28日には、ソウルが陥落した。韓国軍98,000人は、22,000人に激減してしまった。朝鮮半島は山が多いため戦車は、有効でないと高をくくっていたアメリカが、慌てて日本から第24師団を送り込んだのは、7月1日だった。
7月5日には、烏山北方で北朝鮮軍と交戦したが、北朝鮮軍は、T34/85戦車を中心にソ連製の近代兵器でアメリカ軍を打ち破った。アメリカ軍のM24軽戦車では、T34/85戦車に歯が立たなかった。
7月7日国連安保理事会は、国連軍の創設を決定し、8日国連軍総司令官にマッカーサー元帥が任命された。
国連軍と言っても、実質的には、アメリカ軍がほとんどだったが。
8月には、朝鮮半島最南端の釜山周辺に追い込まれた。しかし釜山を根拠地として日本などから、兵員・軍需物資の大量補給により、洛東江(ナクトンガン)を防衛線として、踏みとどまった。
アメリカ軍が、制空権・制海権を確保していたため、空爆により、北朝鮮軍の進撃速度は急速に衰えて、補給も難しくなってきた。
(参考図書)
韓国軍

6月25日の韓国軍の状況は、驚く程のんびりしたものだった。
6月11日から出されていた非常警戒令が、24日午前0時に解除され、韓国軍兵士は、部隊から離れて、外出しあるいは休暇を取っていた。韓国軍の幹部連中やアメリカ軍事顧問も、24日夜のソウルで行われた陸軍会館の落成式に出席して、夜遅く迄飲み明かしていた。
武器や車両も3分の1近くが、修理のため、富平の武器補給処に集められていた。
ゲリラ活動の抑止など、治安維持活動のために、韓国国内に部隊を分散させていたため、38度線からソウルまでの防衛に当たる戦力が、侵攻してくる北朝鮮軍に比べて不足していた。
戦車も無く、対戦車用のバズーカ砲も、役に立たなかったため、韓国軍兵士は、「地雷、火炎びん、手榴弾、爆弾を体に巻きつけて体当たりする」などの肉弾攻撃で、戦車に立ち向かった。
戦車だけでは、進撃できず歩兵の援護が必要なため、地形を利用して、山上から歩兵を狙い打った。東豆川正面など一部地域では、韓国軍の反撃により、北朝鮮軍が敗走した。
韓国軍総参謀長蔡秉徳少将は、北朝鮮軍の怒涛の進撃を議政府で食い止める覚悟を決めた。ソウルと目と鼻の先にある議政府が突破されれば、ソウルの陥落も時間の問題になってしまうからだ。
総参謀長は、26日10時議政府を守る第7師団司令部に赴き、第7師団長と大田を守る第2師団長に議政府死守を命じた。
第2師団長は、ソウル守備に結集できる戦力の全てが集結してから、漢江に防衛線を敷くべきと意見具申したが、総参謀長の考えを変える事は出来なかった。
その他在京の首都師団・ソウル特別連隊・陸軍士官学校生徒大隊・陸軍砲兵学校教導大隊・独立機甲連隊・陸本将校連隊など、かき集められる軍隊は全てソウル死守のために、動員された。
又大邸を守る第3師団・光州を守る第5師団も急遽ソウルに呼び寄せられた。韓国軍総力を挙げて、ソウルを死守せんとした


アメリカの油断
開戦時の北朝鮮軍と韓国軍の陸軍戦力は以下の通りであった。
(北朝鮮軍) (韓国軍)
総兵力 135,000人 98,000人
思想警備隊など
50,000人
122ミリ榴弾砲 96門 105ミリ榴弾砲 103門
76ミリ野砲 288門
その他の砲 14門
82ミリ迫撃砲 648門 81ミリ迫撃砲 162門
45ミリ対戦車砲 456門 60ミリ迫撃砲 218門
T34/85戦車 248台 57ミリ対戦車砲 66門
自走砲 117台 2.36インチロケットランチャー
700門
特にソウル防衛の最重要拠点、議政府(ウイジョンブ)正面の北朝鮮軍には、戦車150台が配備されており、中央突破で首都ソウル占領を狙っていた。
スターリンが朝鮮半島の武力統一を狙って、北朝鮮に十分な軍事援助を行っていたのに対して、アメリカは、李承晩大統領の北進を恐れて、防御用の兵器しか供与していなかった。
そのため開戦時、韓国軍には戦車が存在せず、北朝鮮軍のT34/85戦車に対抗できる有効な手段が無かった。対戦車兵器として考えていた、2.36インチバズーカが歯が立たなかったため、北の戦車隊の思うように蹂躙されて、進撃を許す事になった。
1948年8月大韓民国が成立し、李承晩が大統領に就任した。9月朝鮮民主主義人民共和国が成立し、金日成が首相に就任した。
1948年9月、北朝鮮が米ソ両軍の朝鮮半島からの撤兵を要求した。北朝鮮軍の南進の一番の障害は、在韓米軍だったからだ。ソ連が撤兵に応じたため、アメリカも韓国から撤兵せざるを得なくなり、1949年6月アメリカ軍も朝鮮半島から撤兵した。
南北朝鮮の軍事力の格差がひどかったため、北朝鮮による朝鮮半島の武力統一が現実味を帯びる事になった。
更に1949年10月中華人民共和国が成立し、1950年2月中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれた。
1950年1月12日アチソン米国務長官は、「米国の防衛線はアリューシャン・日本・沖縄を結ぶ線」と、プレスクラブで演説したため、アメリカは朝鮮半島と台湾を放棄したものと受け取られる事になった。
(参考図書)
(北朝鮮軍) (韓国軍)
総兵力 135,000人 98,000人
思想警備隊など
50,000人
122ミリ榴弾砲 96門 105ミリ榴弾砲 103門
76ミリ野砲 288門
その他の砲 14門
82ミリ迫撃砲 648門 81ミリ迫撃砲 162門
45ミリ対戦車砲 456門 60ミリ迫撃砲 218門
T34/85戦車 248台 57ミリ対戦車砲 66門
自走砲 117台 2.36インチロケットランチャー
700門
特にソウル防衛の最重要拠点、議政府(ウイジョンブ)正面の北朝鮮軍には、戦車150台が配備されており、中央突破で首都ソウル占領を狙っていた。
スターリンが朝鮮半島の武力統一を狙って、北朝鮮に十分な軍事援助を行っていたのに対して、アメリカは、李承晩大統領の北進を恐れて、防御用の兵器しか供与していなかった。
そのため開戦時、韓国軍には戦車が存在せず、北朝鮮軍のT34/85戦車に対抗できる有効な手段が無かった。対戦車兵器として考えていた、2.36インチバズーカが歯が立たなかったため、北の戦車隊の思うように蹂躙されて、進撃を許す事になった。
1948年8月大韓民国が成立し、李承晩が大統領に就任した。9月朝鮮民主主義人民共和国が成立し、金日成が首相に就任した。
1948年9月、北朝鮮が米ソ両軍の朝鮮半島からの撤兵を要求した。北朝鮮軍の南進の一番の障害は、在韓米軍だったからだ。ソ連が撤兵に応じたため、アメリカも韓国から撤兵せざるを得なくなり、1949年6月アメリカ軍も朝鮮半島から撤兵した。
南北朝鮮の軍事力の格差がひどかったため、北朝鮮による朝鮮半島の武力統一が現実味を帯びる事になった。
更に1949年10月中華人民共和国が成立し、1950年2月中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれた。
1950年1月12日アチソン米国務長官は、「米国の防衛線はアリューシャン・日本・沖縄を結ぶ線」と、プレスクラブで演説したため、アメリカは朝鮮半島と台湾を放棄したものと受け取られる事になった。
(参考図書)
朝鮮戦争勃発
1950年6月25日早朝、朝鮮半島38度線全域にわたって、北朝鮮軍の奇襲攻撃が始まった。まず大砲の一斉射撃を行ってから、7個歩兵師団・1個戦車旅団を先頭に、38度線を越えて南進を開始した。
前年の1949年10月1日中国に毛沢東を首席とする、中華人民共和国が成立し、ソ連の空軍と中国の陸軍の協力を考えた場合、朝鮮半島に共産主義による統一政権を作る絶好のチャンスが訪れていた。
スターリンは北朝鮮による朝鮮半島統一を狙って、北朝鮮軍の近代化と装備の充実を1945年以来着々と行っており、戦車も無い南朝鮮軍など一息に海まで追い落とせると見ていた。
ただし陸軍を朝鮮に派遣する余裕は無かったから、陸軍は国共内戦を勝利して対外戦争に打って出る余裕のできた、中国頼みだった。
そんな状況の時に、アメリカが在韓米軍を撤兵したため、金日成に南進の絶好の機会が訪れたのが、朝鮮戦争直前の朝鮮半島情勢だった。
(参考図書)
前年の1949年10月1日中国に毛沢東を首席とする、中華人民共和国が成立し、ソ連の空軍と中国の陸軍の協力を考えた場合、朝鮮半島に共産主義による統一政権を作る絶好のチャンスが訪れていた。
スターリンは北朝鮮による朝鮮半島統一を狙って、北朝鮮軍の近代化と装備の充実を1945年以来着々と行っており、戦車も無い南朝鮮軍など一息に海まで追い落とせると見ていた。
ただし陸軍を朝鮮に派遣する余裕は無かったから、陸軍は国共内戦を勝利して対外戦争に打って出る余裕のできた、中国頼みだった。
そんな状況の時に、アメリカが在韓米軍を撤兵したため、金日成に南進の絶好の機会が訪れたのが、朝鮮戦争直前の朝鮮半島情勢だった。
(参考図書)
バルバロッサ作戦2
ドイツ軍によるソ連侵攻の奇襲作戦・バルバロッサ作戦が、何故ものの見事に成功したのか。戦力的には、互角に近いものだった訳で、日本軍による真珠湾奇襲作戦と比べると、作戦の地域的な広がりから言っても、ソ連側にドイツ軍に対するほんのちょっとした警戒感でもあれば、国境付近で食い止められたはずだった。
スターリンの考えでは、ドイツはイギリスと北アフリカで激戦を繰り広げており、6月21日ロンメルが、トブルクを陥落させたばかりで、ソ連に戦争を仕掛けるような馬鹿な事をするはずが無いと思われた。
イギリスとの西部戦線も続行中であり、ソ連との東部戦線を開始すれば、2正面作戦を行わねばならず、自殺行為となるからだ。
従ってバルバロッサ作戦開始前のスターリンは、むしろドイツがイギリスと戦っているスキを突いて、ドイツ占領下のポーランドとルーマニアに奇襲攻撃をかける準備を進めていた。
そのため飛行機も国境付近の飛行場に集結させていたし、軍の配置も防御体勢と言うよりは、攻撃態勢にあったと思われる。
その結果がバルバロッサ作戦開始2日で、飛行場の空襲により、飛行機に大損害を被って、ドイツ軍に制空権を奪われる事になった。また、2重・3重の防御陣地を構築していなかったため、ドイツ軍の機甲部隊の餌食になった訳である。
(参考図書)
スターリンの考えでは、ドイツはイギリスと北アフリカで激戦を繰り広げており、6月21日ロンメルが、トブルクを陥落させたばかりで、ソ連に戦争を仕掛けるような馬鹿な事をするはずが無いと思われた。
イギリスとの西部戦線も続行中であり、ソ連との東部戦線を開始すれば、2正面作戦を行わねばならず、自殺行為となるからだ。
従ってバルバロッサ作戦開始前のスターリンは、むしろドイツがイギリスと戦っているスキを突いて、ドイツ占領下のポーランドとルーマニアに奇襲攻撃をかける準備を進めていた。
そのため飛行機も国境付近の飛行場に集結させていたし、軍の配置も防御体勢と言うよりは、攻撃態勢にあったと思われる。
その結果がバルバロッサ作戦開始2日で、飛行場の空襲により、飛行機に大損害を被って、ドイツ軍に制空権を奪われる事になった。また、2重・3重の防御陣地を構築していなかったため、ドイツ軍の機甲部隊の餌食になった訳である。
(参考図書)
バルバロッサ作戦
イギリス本土上陸作戦を断念したヒトラーは、本来の目標であるソ連征服を目指して、1941年6月21日、ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」を開始した。
レープの北方軍集団・ボックの中央軍集団・ルントシュテットの南方軍集団及びその他の枢軸国軍、総兵力300万人余が、500万人余のソ連軍に襲い掛かった。
独ソ不可侵条約もあり、6月の時点では、スターリンはドイツのソ連侵攻作戦はまだ先の事だと思っていたため、完全に不意を衝かれた。またスターリンによる赤軍粛清により、ソ連軍の有能な幹部が多数殺されていたため、ソ連軍の士気は、甚だしく低下していた。
最初の2日間の飛行場爆撃などにより、ソ連空軍の飛行機を2000機余破壊して、勝敗の帰趨を決定する制空権を確保した、ドイツ軍の進撃のスピードは、目覚しかった。
あまりにも進撃のスピードが速すぎて、物資の補給が間に合わなくなってしまった。また歩兵のスピードに制約されて、進撃は遅くならざるを得なかった。
ナポレオンのロシア侵略の時と同じように、ソ連側が焦土作戦に出たため、兵糧の現地調達も出来なかった。
ユダヤ人にとっては、ドイツ軍の占領地が増える事は、死ないし収容所送りを意味したが、バルト3国やフィンランドなどソ連の共産主義政権に、一部ないし全部武力占領されていた国にとっては、ドイツ軍は解放者とも言えた。
(参考図書)
レープの北方軍集団・ボックの中央軍集団・ルントシュテットの南方軍集団及びその他の枢軸国軍、総兵力300万人余が、500万人余のソ連軍に襲い掛かった。
独ソ不可侵条約もあり、6月の時点では、スターリンはドイツのソ連侵攻作戦はまだ先の事だと思っていたため、完全に不意を衝かれた。またスターリンによる赤軍粛清により、ソ連軍の有能な幹部が多数殺されていたため、ソ連軍の士気は、甚だしく低下していた。
最初の2日間の飛行場爆撃などにより、ソ連空軍の飛行機を2000機余破壊して、勝敗の帰趨を決定する制空権を確保した、ドイツ軍の進撃のスピードは、目覚しかった。
あまりにも進撃のスピードが速すぎて、物資の補給が間に合わなくなってしまった。また歩兵のスピードに制約されて、進撃は遅くならざるを得なかった。
ナポレオンのロシア侵略の時と同じように、ソ連側が焦土作戦に出たため、兵糧の現地調達も出来なかった。
ユダヤ人にとっては、ドイツ軍の占領地が増える事は、死ないし収容所送りを意味したが、バルト3国やフィンランドなどソ連の共産主義政権に、一部ないし全部武力占領されていた国にとっては、ドイツ軍は解放者とも言えた。
(参考図書)
ヒトラー2
徴兵逃れのヒトラーに対するオーストリア警察の追及は執拗で、、ミュンヘンに逃げ込んだヒトラーの居場所を突き止めた。オーストリア総領事館に連れて行かれたヒトラーは、ドイツとオーストリアの国境にある、ザルツブルクで徴兵検査を受ける事になった。
ろくな食生活を送っていなかった事がヒトラーに幸いした。徴兵検査の結果、栄養失調で不合格となった。
そんなヒトラーに転機が訪れた。1914年7月28日に第1次世界大戦が勃発し、8月3日ヒトラーは、ドイツに対する愛国心から、ドイツ軍に志願した。生まれ故郷のオーストリアの徴兵は、逃げ出したと言うのに。
ウイーンでの美術学校の受験の失敗や、貧乏生活で、オーストリアに憎しみを抱いていたのだろう。もうひとつ考えられる事は、生きていく術として、兵隊になるしか、なかったのだろう。
死と隣り合わせとは言うものの、一応住む所と食事が確保されて、うまく行けば出世のチャンスもあるのは、学歴も技術も職業的経験も無い、青年失業者にとって、軍隊位しか無いからだ。


ろくな食生活を送っていなかった事がヒトラーに幸いした。徴兵検査の結果、栄養失調で不合格となった。
そんなヒトラーに転機が訪れた。1914年7月28日に第1次世界大戦が勃発し、8月3日ヒトラーは、ドイツに対する愛国心から、ドイツ軍に志願した。生まれ故郷のオーストリアの徴兵は、逃げ出したと言うのに。
ウイーンでの美術学校の受験の失敗や、貧乏生活で、オーストリアに憎しみを抱いていたのだろう。もうひとつ考えられる事は、生きていく術として、兵隊になるしか、なかったのだろう。
死と隣り合わせとは言うものの、一応住む所と食事が確保されて、うまく行けば出世のチャンスもあるのは、学歴も技術も職業的経験も無い、青年失業者にとって、軍隊位しか無いからだ。

第2次世界大戦3
第2次世界大戦に至る原因を探って行くと、ヒトラーの個人的な意思が非常に大きく作用していた事に気付かされる。ヒトラーは、ヴェルサイユ条約を破棄して強大なドイツの再軍備を実行し、一大軍事国家を作り上げた。
1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻に対して、9月3日英仏がドイツに宣戦布告して始まった第2次世界大戦で、メッサーシュミット戦闘機と、ユンカース急降下爆撃機などの空軍の援護の下、戦車などの機甲部隊のスピードのある破壊力によって、ソ連を除くヨーロッパ大陸諸国を猛烈な勢いで屈服させていった。
1939年8月、ポーランド侵攻の直前、突如独ソ不可侵条約を結んで、東部戦線を安全にしてから、英仏との西部戦線に突入していった。
1940年4月のデンマーク・ノルウエー侵略を皮切りに、5月フランスの難攻不落と思われたマジノ線を突破し、ベルギー・オランダを占領した。
1940年5月から6月にかけて、英仏連合軍をダンケルクからイギリスに撤退させ、6月14日ドイツ軍はパリに入った。
勢いにのるヒトラーは、イギリス上陸作戦のため、7月から11月にかけて、空軍によるイギリス空襲を行った。(バトル・オブ・ブリテン)
しかしイギリスの方が一枚上だった。戦闘機の生産力がドイツを上回っており、スピットファイアなどの戦闘機の能力も、ドイツのメッサーシュミットなどと互角だった。
レーダーなどにより、的確な迎撃を行って、消耗戦に持ち込み、10月12日ヒトラーは、イギリス上陸作戦を諦めざるを得なくなった。
(参考図書)
1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻に対して、9月3日英仏がドイツに宣戦布告して始まった第2次世界大戦で、メッサーシュミット戦闘機と、ユンカース急降下爆撃機などの空軍の援護の下、戦車などの機甲部隊のスピードのある破壊力によって、ソ連を除くヨーロッパ大陸諸国を猛烈な勢いで屈服させていった。
1939年8月、ポーランド侵攻の直前、突如独ソ不可侵条約を結んで、東部戦線を安全にしてから、英仏との西部戦線に突入していった。
1940年4月のデンマーク・ノルウエー侵略を皮切りに、5月フランスの難攻不落と思われたマジノ線を突破し、ベルギー・オランダを占領した。
1940年5月から6月にかけて、英仏連合軍をダンケルクからイギリスに撤退させ、6月14日ドイツ軍はパリに入った。
勢いにのるヒトラーは、イギリス上陸作戦のため、7月から11月にかけて、空軍によるイギリス空襲を行った。(バトル・オブ・ブリテン)
しかしイギリスの方が一枚上だった。戦闘機の生産力がドイツを上回っており、スピットファイアなどの戦闘機の能力も、ドイツのメッサーシュミットなどと互角だった。
レーダーなどにより、的確な迎撃を行って、消耗戦に持ち込み、10月12日ヒトラーは、イギリス上陸作戦を諦めざるを得なくなった。
(参考図書)
ヒトラー1
ヒトラーは、1889年オーストリアのプラウナウで、税関の役人の子に生まれた。つまりドイツ生まれの生粋のトイツ人では無かった。ちょうどナポレオンがコルシカ生まれで、生粋のフランス人では無かったように。
学校の成績は悪く、青年時代は、ウイーンに下宿して、美術学校の受験に2回失敗した。プロの芸術家に成れるような才能は無かった。
母の残してくれた遺産も無くなると、下宿代も払えず、国立浮浪者収容所に移り住んだ。ハニッシュと言う男に絵を売って貰って、孤児恩給と絵の代金で、何とか生活できた。
徴兵されそうになったため、オーストリアからドイツのミュンヘンに逃げた。
1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ=フェルデイナンド夫妻が、サライエヴォで暗殺された。暗殺者は、反オーストリア運動を行っていた「黒い手」の団員プリンツイプだった。
「黒い手」は、「大セルビア」の実現を目指す秘密組織で、セルビア王国軍の軍人ピアスを指導者としていた。
オーストリアは、7月下旬セルビアに宣戦布告した。
(参考図書)
学校の成績は悪く、青年時代は、ウイーンに下宿して、美術学校の受験に2回失敗した。プロの芸術家に成れるような才能は無かった。
母の残してくれた遺産も無くなると、下宿代も払えず、国立浮浪者収容所に移り住んだ。ハニッシュと言う男に絵を売って貰って、孤児恩給と絵の代金で、何とか生活できた。
徴兵されそうになったため、オーストリアからドイツのミュンヘンに逃げた。
1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ=フェルデイナンド夫妻が、サライエヴォで暗殺された。暗殺者は、反オーストリア運動を行っていた「黒い手」の団員プリンツイプだった。
「黒い手」は、「大セルビア」の実現を目指す秘密組織で、セルビア王国軍の軍人ピアスを指導者としていた。
オーストリアは、7月下旬セルビアに宣戦布告した。
(参考図書)
ナチスの台頭
第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に、共産主義とファシズムと言う20世紀の汚点とも言うべき独裁主義体制の国家が、成立して行った過程を振り返り、2度と戦争の悲劇を繰り返さないようにする事が大切だろう。
もっともファシズムは倒されたが、共産主義はいまだに健在だが。
ファシズムと言えば、何と言ってもドイツにおけるナチスが代表選手だから、ナチスが権力を掌握して行った理由を探ってみる。
1918年11月、第1次世界大戦後、ドイツでは革命(11月革命)が起きてドイツ帝国が倒され、エーベルトを大統領とする社会民主党政権が誕生し、ワイマール共和国が成立した。
1919年1月ロシア革命を見習った武力革命を目指すドイツ共産党の暴動を、社会民主党政府が武力で鎮圧し、共産党の2人の指導者(カール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルク)を殺害したため、社会民主党と共産党は、犬猿の仲となった。
その後ナチスが台頭して来た時、反ファシズムの立場から共闘すべき、社会民主党と共産党がいがみ合っていた為、効果的な対抗策が打ち出せなかった。
もっともファシズムは倒されたが、共産主義はいまだに健在だが。
ファシズムと言えば、何と言ってもドイツにおけるナチスが代表選手だから、ナチスが権力を掌握して行った理由を探ってみる。
1918年11月、第1次世界大戦後、ドイツでは革命(11月革命)が起きてドイツ帝国が倒され、エーベルトを大統領とする社会民主党政権が誕生し、ワイマール共和国が成立した。
1919年1月ロシア革命を見習った武力革命を目指すドイツ共産党の暴動を、社会民主党政府が武力で鎮圧し、共産党の2人の指導者(カール=リープクネヒトとローザ=ルクセンブルク)を殺害したため、社会民主党と共産党は、犬猿の仲となった。
その後ナチスが台頭して来た時、反ファシズムの立場から共闘すべき、社会民主党と共産党がいがみ合っていた為、効果的な対抗策が打ち出せなかった。
第2次世界大戦2
第1次世界大戦の敗戦国ドイツでは、領土の割譲と、多額の賠償金の支払いを求められたため、戦勝国の英仏に対する憎しみの感情が募って行った。そうした国民感情に答えたのが、ナチス党だった。
1919年9月ドイツ陸軍の北部司令部の政治部に勤めていたヒトラーは、ミュンヘンで「ドイツ労働者党」を調査する事になった。その集会での発言がきっかけで、「ドイツ労働者党」に入党する。
「ドイツ労働者党」の幹部の中には、後にSA(突撃隊)の隊長となりヒトラーに暗殺されたレームもいた。
1920年4月「国家社会主義労働者党」(ナチス党)が誕生し、元軍人や前科者などのならず者で、鉄砲部隊 を作って、共産主義者や社会主義者などナチス党の反対勢力を武力で黙らせた。これが後のSA(突撃隊)に発展する。
1921年4月英仏連合国は、とても払いきれない1300億マルクの賠償金を求めてきたので、ドイツ国民の怒りはますます増大した。
1921年11月4日ナチス党の演説会を妨害しようとした労働者グループに対して、ナチス党の軍隊が発砲し、静かにさせた。
そこでヒトラーは、反ユダヤ主義・ドイツ民族を単一国家に統合する事・ヴェルサイユ条約やサン=ジェルマン条約の破棄・国民軍の創設などを提唱し、喝采を浴びた。
1919年9月ドイツ陸軍の北部司令部の政治部に勤めていたヒトラーは、ミュンヘンで「ドイツ労働者党」を調査する事になった。その集会での発言がきっかけで、「ドイツ労働者党」に入党する。
「ドイツ労働者党」の幹部の中には、後にSA(突撃隊)の隊長となりヒトラーに暗殺されたレームもいた。
1920年4月「国家社会主義労働者党」(ナチス党)が誕生し、元軍人や前科者などのならず者で、鉄砲部隊 を作って、共産主義者や社会主義者などナチス党の反対勢力を武力で黙らせた。これが後のSA(突撃隊)に発展する。
1921年4月英仏連合国は、とても払いきれない1300億マルクの賠償金を求めてきたので、ドイツ国民の怒りはますます増大した。
1921年11月4日ナチス党の演説会を妨害しようとした労働者グループに対して、ナチス党の軍隊が発砲し、静かにさせた。
そこでヒトラーは、反ユダヤ主義・ドイツ民族を単一国家に統合する事・ヴェルサイユ条約やサン=ジェルマン条約の破棄・国民軍の創設などを提唱し、喝采を浴びた。
第2次世界大戦1
日本を太平洋戦争へと導いた外交上の大失敗は、1937年11月に結ばれた日独伊防共協定という事だろう。日中戦争の泥沼にはまり込んだ日本は、蒋介石を援助する英米など欧米列強に対抗するために、対英強行派のドイツと手を組んだ。
表向きはソ連に対抗するための防共協定だったが、結果的には、英米と戦争する道に繋がっていた。
第32代アメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトは、第2次対戦中、ソ連を援助するなど容共派と言ってもいいような外交姿勢で、ヒトラー以上の粛清を行った独裁者、スターリンを助けた。
ヒトラーの攻撃対象は、ユダヤ民族だったのに対して、スターリンの攻撃対象は、自国民だったから、もっとたちが悪いとも言える。
ローズヴェルト大統領は、スターリンを助ける事によって、間接的に毛沢東を助けた事になる。ソ連は中国共産党を援助していたから。
共産党独裁体制内では、体制に反対する勢力は、徹底的に粛清されて、裁判無しで処刑され、その証拠も隠滅されたから、何百万人・何千万人殺されたか見当もつかない。
何故英米がソ連と手を組んだかと言うと、ユダヤ財閥が、英米の政治に深く食い込んでいて、反ユダヤのヒトラーに対抗するために、共産主義よりナチスの方を根絶したかったからだろう。
表向きはソ連に対抗するための防共協定だったが、結果的には、英米と戦争する道に繋がっていた。
第32代アメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトは、第2次対戦中、ソ連を援助するなど容共派と言ってもいいような外交姿勢で、ヒトラー以上の粛清を行った独裁者、スターリンを助けた。
ヒトラーの攻撃対象は、ユダヤ民族だったのに対して、スターリンの攻撃対象は、自国民だったから、もっとたちが悪いとも言える。
ローズヴェルト大統領は、スターリンを助ける事によって、間接的に毛沢東を助けた事になる。ソ連は中国共産党を援助していたから。
共産党独裁体制内では、体制に反対する勢力は、徹底的に粛清されて、裁判無しで処刑され、その証拠も隠滅されたから、何百万人・何千万人殺されたか見当もつかない。
何故英米がソ連と手を組んだかと言うと、ユダヤ財閥が、英米の政治に深く食い込んでいて、反ユダヤのヒトラーに対抗するために、共産主義よりナチスの方を根絶したかったからだろう。
日清戦争2
英国汽船高陞号の護衛に向かっていた清国軍艦2隻の内、広乙号は炎上、済遠号は逃走した。護衛してきた操江号は降伏した。英国汽船を臨検したところ、1000人余の清国兵が乗船していた。浪速艦長東郷平八郎大佐(日露戦争における日本海海戦の英雄)は、降伏を勧めたが、拒絶されたため、英国汽船を撃沈した。ただし英国人船長ら3人の船員は救助した。
英国世論は、激昂し損害賠償の声も上がったが、清国の戦闘行為に供されていたと認められて、事無きを得た。
陸上戦闘の方は、7月27日朝鮮半島の成歓・芽山で日清両軍が激突し、日本軍が勝利した。
8月1日、日清両国は宣戦を布告した。
開戦時の兵力は、陸軍が日本軍が200,000万人、清国軍が350,000人。海軍は日本軍が28隻60,000トン、清国軍が82隻85,000トン。
8月29日山県有朋陸軍大将を総司令官とする第1軍が編成されて、9月13日に京城に進出した。武人山県有朋のたっての願いを天皇が受け入れた人事だった。元首相で枢密院議長のまま、朝鮮派遣軍の司令官になった山県有朋の心中は察するに余りあるものだったろう。人生最高のひと時だった。
(参考図書)
「山県有朋」半藤一利著 PHP研究所
「東アジア史としての日清戦争」大江志乃夫著 (株)立風書房
英国世論は、激昂し損害賠償の声も上がったが、清国の戦闘行為に供されていたと認められて、事無きを得た。
陸上戦闘の方は、7月27日朝鮮半島の成歓・芽山で日清両軍が激突し、日本軍が勝利した。
8月1日、日清両国は宣戦を布告した。
開戦時の兵力は、陸軍が日本軍が200,000万人、清国軍が350,000人。海軍は日本軍が28隻60,000トン、清国軍が82隻85,000トン。
8月29日山県有朋陸軍大将を総司令官とする第1軍が編成されて、9月13日に京城に進出した。武人山県有朋のたっての願いを天皇が受け入れた人事だった。元首相で枢密院議長のまま、朝鮮派遣軍の司令官になった山県有朋の心中は察するに余りあるものだったろう。人生最高のひと時だった。
(参考図書)
「山県有朋」半藤一利著 PHP研究所
「東アジア史としての日清戦争」大江志乃夫著 (株)立風書房
日清戦争1
1894年5月4日朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争こうごのうみん戦争・・・朝鮮南部一帯に起こった農民の反乱)が、起きた。李氏朝鮮政府は、自力で収拾できず、反乱鎮圧のため清に軍隊の出動を要請した。
これを知った日本は、かねてから朝鮮進出の機会を窺っていたため、6月2日頼まれもせずに8000人の軍隊の朝鮮出兵を決定した。豊臣秀吉の朝鮮侵略以来300年経って、本格的な対外戦争に打って出た訳である。
戊辰戦争・西南戦争を通じて、近代的軍隊を作り上げてきた歴戦のつわもの揃いの日本軍にとって、自前の軍隊と呼べる程のものを持たず、中国の保護下に平和ぼけした李氏朝鮮は、格好の獲物だった。
清も帝国主義列強に連戦連敗で、軍の近代化が遅れており、各地の軍閥の寄せ集めで、中央集権国家を作り上げて統制の取れた日本軍の敵ではないと思われた。
7月23日、「朝鮮独立のため」と言う口実で出兵したように見せかけるため、まず手始めに朝鮮王宮を急襲して占領し、王と王妃を確保し、朝鮮兵を武装解除した。
国王高宗の父の大院君を摂政にして、日本の傀儡政権を作った。
清との戦闘は、7月25日豊島沖で日清両艦隊の衝突によって始まった。牙山に清の軍隊が駐屯しており、これに対する援軍として、1200人の兵士と大砲12門を乗せた英国汽船が、牙山湾に向かいつつあった。牙山湾から出てきた2隻の清国軍艦が英国汽船護衛のため豊島方向に向かっていた。
これを知った日本は、かねてから朝鮮進出の機会を窺っていたため、6月2日頼まれもせずに8000人の軍隊の朝鮮出兵を決定した。豊臣秀吉の朝鮮侵略以来300年経って、本格的な対外戦争に打って出た訳である。
戊辰戦争・西南戦争を通じて、近代的軍隊を作り上げてきた歴戦のつわもの揃いの日本軍にとって、自前の軍隊と呼べる程のものを持たず、中国の保護下に平和ぼけした李氏朝鮮は、格好の獲物だった。
清も帝国主義列強に連戦連敗で、軍の近代化が遅れており、各地の軍閥の寄せ集めで、中央集権国家を作り上げて統制の取れた日本軍の敵ではないと思われた。
7月23日、「朝鮮独立のため」と言う口実で出兵したように見せかけるため、まず手始めに朝鮮王宮を急襲して占領し、王と王妃を確保し、朝鮮兵を武装解除した。
国王高宗の父の大院君を摂政にして、日本の傀儡政権を作った。
清との戦闘は、7月25日豊島沖で日清両艦隊の衝突によって始まった。牙山に清の軍隊が駐屯しており、これに対する援軍として、1200人の兵士と大砲12門を乗せた英国汽船が、牙山湾に向かいつつあった。牙山湾から出てきた2隻の清国軍艦が英国汽船護衛のため豊島方向に向かっていた。