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ロシア革命

(ロシア革命1)
 1917年ロシアにおいて勃発した、ロシア革命(2月革命と10月革命)は、人類の歴史における最大の分岐点となる出来事になるかも知れない。ロシア革命以前のあまたの歴史的事件では、他民族による大虐殺はあったものの、同じ民族の内部はまとまっていた。

 ところが、ロシア革命以降は、ロシアによる革命の輸出が、全世界規模に広がった結果、同じ民族の内部分裂が世界各地で引き起こされるようになった。

 簡単に言えば反体制活動が、世界規模で連携して行われるようになり、一国だけの軍隊・警察力では、抑えられなくなっている。

 戦争が国家対国家の戦争から、国家対世界規模の反体制組織の戦争に衣替えしたきっかけが、ロシア革命だった。ロシア革命以降の共産主義の世界輸出は現在も盛んに行われている。

 歴史に話しを戻すと、第1次世界大戦前のロシアは、1904年~1905年の日露戦争中、1905年の血の日曜日事件で、軍隊が首都ペテルブルクの冬宮に向かって行進するデモ隊に発砲した事件を契機に、ストライキが全国に広がった。

 この流れの内から、ソヴィエト(労働者と兵士の協議会)が生まれて、10月にペテルブルグで大会が開かれた。


(参考図書)


(ロシア革命2)
 国内の反体制運動の拡大により、ロシア政府の日露戦争続行は、困難となった。日本海海戦でバルチック艦隊が、大敗北を喫したことをきっかけに、アメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトの仲介を受け入れ、日本との講和を結ぶ事になった。

 1905年9月5日、日本側講和会議全権小村寿太郎と、ロシア側全権ウイッテとの間で、樺太の南半分を日本に引き渡すとの条件で、ポーツマス講和条約が締結された。

 リューリク朝断絶後、1613年ミハイル・ロマノフがツアーリに即位して始まったロマノフ朝は、300年も経つと身分制の固定化などにより、社会の不満が高まって、崩壊寸前にきていた。

 血の日曜日事件で皇帝に対する尊敬の念が喪失しつつあった上に、日露戦争の敗北によって、一挙に革命的雰囲気が高まった。

 更に、1905年11月14日、ロマノフ朝の権威を失墜させる、怪僧ラスプーチンが宮廷にやってきた。


(参考図書)


(ロシア革命3)
 日露戦争後、革命的雰囲気が一層高まり、1861年アレクサンドル2世による農奴解放以降不穏な情勢となった農村では、村会の取り決めによって、地主を追い出す動きが、生じた。

 9月にはモスクワの印刷工のストライキが起き、10月には、モスクワーカザン線の鉄道員のストライキが、全国の鉄道員のストライキに広がった。

 更にこれらのストライキは、労働者だけでなく学生・教師・役人・商店主・店員などにも広がった。

 ポーツマス講和会議から帰国したウイッテは、首相に就任すると、革命的情勢を鎮めるため、国会を開設する事を皇帝ニコライ2世に進言した。

 1906年2~3月の国会議員選挙に対して、ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキ(多数派)もメンシェヴィキ(少数派)もボイコットを呼びかけたが、結果は、448議席中、立憲民主党153・農民派トルドヴィキ107・民族自治派63・オクチャブリスト13議席などとなった。

 5月立憲専制体制とも言うべきものを定めた憲法が公布された。ウイッテは憲法制定の前日に首相を辞任し、ゴレムイキン首相の後、7月からストルイピンが首相に就任した。


(参考図書)


(ロシア革命4)
  ストルイピンは、ペテルブルク帝国大学で自然科学を学び、グロドノ県知事をしていた貴族出身者だった。有能な首相として、崩壊寸前のロマノフ朝を救おうとして、特に農業問題と民族問題でストルイピンの改革を行おうとした。

 国内では、革命運動を徹底的に弾圧して国内体制を固めると共に、外交政策では、親英・親独平和路線を取って、戦争を回避しようとしていた。

 「日露戦争後の革命的情勢から考えて、もしまた戦争に巻き込まれるか、戦争を引き起こせば、その時は、ロマノフ朝が倒れる」と、ストルイピンには思われたのだろう。

 ストルイピンの改革も、2院制の国会で、その改革法案を通そうとすると、下院では保守的として反対され、上院では、過激すぎるとして反対され、法案が通らなかった。

 更に、ストルイピン一家の住んでいた家が、1906年8月25日爆弾攻撃を受けて、子供たちが負傷した。最後には、ストルイピン自身が、1911年9月18日皇帝も臨席していたキエフの劇場で、ユダヤ人青年のピストルで暗殺された。


(参考図書)


(ロシア革命5)
 何故一党独裁のボリシェヴィキ政権が、ロシアに誕生したのかを考えると、当たり前になってしまうが、軍事力が全てを決定したと言える。
 
 2月革命は、どちらかと言えば、ブルジョア革命で、それ程急進的なものでは無く、外国との同盟関係も維持していくため、戦争を継続していこうとした。しかしそれが、命取りになった。

 1917年6月下旬、陸相ケレンスキーは、夏季攻勢のためと称して、首都ペトログラードのボリシェヴィキ派革命軍の中核部隊である、第1機関銃連隊(1万人の兵士と1,000人の機関銃兵で構成された)らを、前線に送る決定をした。

 この第1機関銃連隊の機関銃500挺が、ボリシェヴィキ派の権力の源泉であったから、それを首都から遠く前線に送ってしまえば、ボリシェヴィキ派の勢力を抑える事も可能とみたのだろう。

 しかしこの決定に対して、第1機関銃連隊は、政府に公然と反抗し、政府を武力で追い払うと脅かした。

 革命の成功の原因としては、勿論機関銃連隊だけでなく、軍の武器庫から奪った大砲や、鉄砲が、労働者に渡った事が大きかったし、何より、首都の兵士が革命軍に身を投じて、反乱軍になった事が、一番大きかったのだろう。

 ただし、この時は、ボリシェヴィキは、革命に失敗した。7月16、17日「権力をソヴィエトへ」のスローガンのもと、兵士4~6万人、労働者30~35万人の武装デモを起こしたものの、臨時政府側に鎮圧されて、レーニンは、逃げ足早く、地下に潜行して逮捕を免れた。

 レーニンは、ドイツが、第1次大戦を有利に運ぶため、ロシアの混乱を狙って、4月に亡命先のスイスからペトログラードに、ドイツ側の用意した特別列車で、凱旋帰国させていた。

 レーニンは、その後、ドイツの思惑通り、戦争からのロシアの離脱を強硬に主張し、ロシア社会を混乱の極みに陥れていく。


(参考図書)


(ロシア革命6)
 7月のボリシェヴィキほう起の失敗は、ブルジョアジーや保守派に勢いをつけて、反革命の成功への淡い期待を抱かせた。その期待を一身に集めたのが、7月に最高司令官に任命された、コルニーロフだった。

 コルニーロフは、参謀本部大学校を卒業し、日露戦争に従軍した。2月革命後、ペトログラード軍管区司令官に任命されていた。7月西南方面軍司令官に任命された後、最高司令官となった。

 8月6日ケレンスキーを首相とする第3次臨時政府が誕生した。

 コルニーロフは、ケレンスキー首相と会談し、2月革命後、いったん廃止された後、軍の前線における命令違反に対してのみ、復活していた死刑を、後方の命令違反にも復活することを含む、様々な意見を述べたコルニーロフ意見書を、ケレンスキー首相に提出した。

 ケレンスキー首相は、これを拒否したため、9月6日コルニーロフは、反革命クーデターを決断し、部下のクルイモフ将軍に、モスクワから首都ペトログラードに向けて、進撃を開始するように命じた。

 ケレンスキー首相にとって、頼みの綱は、労働者民兵の赤衛隊・ボリシェヴィキ派兵士を中心とする革命軍だけだった。

 ここに共産党一党独裁による、ロシア革命後の政権の骨格が出来上がる事になった。

 9月10日、コルニーロフ軍は、ボリシェヴィキ派の内部工作員兵士によって、内部崩壊させられた。ロシア軍の幹部は貴族出身なのに対して、一般の兵士は、労働者や、農民出身者だったから、幹部と一般の兵士との感情的対立が、軍を内部崩壊させた。このことは、コルニーロフ軍に限らず、全てのロシア軍に言える事だった。


(参考図書)
世界歴史体系 ロシア史3 20世紀  株式会社 山川出版社

(ロシア革命7)
 1917年10月革命は、レーニンによるクーデターで上からのものだった。2月革命は自然発生的に軍隊の反乱などにより、下から行われた革命と言えるものだったが。

 コルニーロフによるクーデターの失敗により、息をふきかえしたレーニンは、他の穏健派の諸政党を全て排除した、ボリシェヴィキによる一党独裁を狙って、武力蜂起を決行する事を、10月23日のボリシェヴィキの秘密会議で決定した。

 決行時期は、第2回全ロシア・ソヴィエト大会の開会迄にとして、第2回全ロシア・ソヴィエト大会は、ボリシェイキ派による武力クーデターの事後報告の場にしてしまう腹だった。

 コルニーロフのクーデターの失敗のおかげで、ボリシェヴィキに軍事力で戦える勢力がなくなったため、ボリシェヴィキ派軍の武力蜂起の成功の確率は、100パーセントに近いものとなっていた。

 軍のほとんど全ては、ドイツなどとの戦いのために、ペトログラードやモスクワからは、遠く離れた所にいて、革命軍を鎮圧できる軍隊がいない隙を突いた訳である。


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テーマ:歴史小説 - ジャンル:小説・文学

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